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新刊一部公開『新しいカレーの歴史 上』 第五章:シャーロック・ホームズに学ぶ19世紀末のカレー(その3)

新刊『新しいカレーの歴史 上』〈日本渡来以前の諸国のカレー〉発売中です。よろしくお願いいたします。

新刊では海外の最新研究動向をふまえ、嘘・間違いだらけの日本のカレー史研究を全面的に刷新します。

以下に、「第五章:シャーロック・ホームズに学ぶ19世紀末のカレー」の一部を、試し読みとして公開します。


5.ホームズはどうやってカレーを食べたのか?


 次の画像は「海軍条約文書事件」における、チキンカレーが並べられた朝食の挿絵である。カレーの盛り付けはビートン夫人のような、真ん中にカレーを盛りライスを周辺に巡らせる方式ではなく、日本の普通のカレーのようにライスの片側にカレーをかけている。なぜこのような盛り付けの違いが生じるのかについては、後ほど説明する。

 そしてこの挿絵には二ヶ所、間違いがある。

「海軍条約文書事件」の朝食場面挿絵 2つミスがある

 一つ目の間違いは、真ん中正面のワトソンの目の前の皿の蓋が閉じていること。この場面(依頼者が盗まれた文書を見て驚く場面)の前に、ワトソンは蓋を開けて、そこにハムエッグがあることをホームズに報告している。なので蓋は取り去っておかねばならない。

 もう一つの間違いは、依頼者の前に取り皿があるのに、ホームズの前に取り皿がないこと。この場面の後にホームズはハムエッグを食べるが、そのハムエッグはワトソンの前の皿を横取りして食べるのではなく、そこから自分の分のハムエッグを取り皿にとって食べる。

 つまりハムエッグもチキンカレーも三人前が提供されており、中華料理の宴会のように、各自が自分の分を取り皿にとって食べるのだ。

 当時イギリスに存在したこの中華料理の宴会方式の配膳方法を、「フランス式配膳法」(ア・ラ・フランセ)という。

 
一方、ハムエッグとチキンカレーをあらかじめ1人分の皿に盛り付け、合計6枚の皿を配膳する現在おなじみの配膳法は「ロシア式配膳法」(ア・ラ・ロッソ)という。

 日本の正月料理で言えば、重箱から取り皿に取るおせち料理はフランス式配膳法、あらかじめ1人分が器に注がれている雑煮はロシア式配膳法だ。

 ホームズの頃のイギリスは、フランス式配膳法からロシア式配膳法への移行時期にあったが、この朝食ではフランス式配膳法を採用している。

 ビートン夫人の頃、19世紀半ばはフランス式配膳法が主流であった。ビートン夫人の来客用のディナーの献立例のほとんどはフランス式配膳法で、ロシア式配膳法の献立は2パターンしか掲載されていない(Beeton 1861:954-955)。

フランス式配膳法のアントレの模式図
この四角はテーブルを意味しており、この周囲に18人が着席する
左側のロブスターカレーの皿を18人でシェアする

 これは第一章で引用した、『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』における4月の18人ディナー献立例。(Beeton 1861:922)。フランス式配膳法のアントレである。

 18人がテーブルを囲むので、おそらく上と下に5人ずつ、右と左に4人ずつ着席する。左側の皿には、18人分のロブスターカレーが盛られている。

 といっても、18人が全員満腹になるような大量のカレーが盛られているわけではない。この献立例では合計26皿の料理が出るので、それぞれの皿の料理の量はさほど多くない。おそらく2~3人前といったところであろうか。

 このころには実用的な回転テーブルが存在しないので(ボールベアリングを使った回転テーブルlazy susan tableが普及し始めたのは20世紀初頭のアメリカにおいて)、各々の人が皿を手渡しして各人がそこから取り皿に料理を取っていく。テーブル上でロブスターカレーの皿のリレーを行うのだ。

 ここで一つ、難題が生じる。18人全員にカレーの肉とライスを行き渡らせるためには、各人が計算してカレーをとりすぎないようにしなければならない。さもなくば、最後の人に到達する前に皿からカレー全体がなくなったり、肉だけ消えたり、ライスだけ消えたりするだろう。

 参加者が均等に肉とライスを取りやすい様に工夫された盛り付け方が、ビートン夫人の円環状にライスを巡らせる方式なのだ。

ビートン夫人のカレー

 18人であるならば、360÷18=20度の角度でピザを切るように肉とライスを取り皿に移せば、ちょうど全員に均等にカレーがいきわたる計算となる。ビートン夫人の円環状のカレーの盛り付け方は、フランス式配膳法に最適化した盛り付け方なのだ。

 一方、ハドソン夫人のチキンカレーはこのような盛り付け方はしていない。シェアする人数が3人という少人数なので、そのような工夫は必要ないからだ。

 ちなみにビートン夫人の円環状盛り付けが当時のイギリスカレーのスタンダードであった、というわけではない。ビートン夫人と並ぶビクトリア朝の代表的料理書Eliza Acton『MODERN COOKERY』には、カレーとライスは別皿で出すべきとある。

 “The rice for a currie should always be sent to table in a separate dish from it, and, in serving them, it should be first helped, and the currie laid upon it.”
 “カレー用ライスは常に、カレーとは別の皿で食卓に出すべきだ。取り皿に取る際には、まずライスをのせ、その上からカレーをかける。”(Acton 1845:344)

 ビートン夫人と同時期にベストセラーとなっていたAlexis Soyer『THE MODERN HOUSEWIFE』のレシピにおいても、カレーとライスは別皿盛りの指定が多い。

 帝国ホテルなどの高級西洋料理店では、金属製のグレービーボートにカレーを入れて出すが、これはカレーの日本伝来時、19世紀半ばのイギリスにはない習慣だ。なぜならフランス式配膳法が主流の時代には、複数人数分のカレーを出す必要があったので、グレービーボートからは溢れてしまうからだ。

グレービーボートで出される帝国ホテルのカレー

 従ってイギリスにおいてカレーをグレービーボートにいれるとするならば、ロシア式配膳法が普及してからということになるが、それでも日本のような盛り付け方はしない。グレービーボートはソース容器であって、肉などの具材を入れないからだ。具材も入れたカレーのグレービーボートでの提供は、日本独自の習慣であろう。

 さて、フランス式配膳法の特徴を踏まえたうえで、「海軍条約文書事件」のセリフを翻訳してみよう。というのもフランス式配膳法を理解していないため、あるいはロシア式配膳法と勘違いしているために、誤訳しているケースが見受けられるからだ。

"Good! What are you going to take, Mr. Phelps: curried fowl, or eggs, or will you help yourself?"

 これはホームズが依頼人のフェルプスに、ニワトリカレー(ここではchickenではなくfowlになっている)とハムエッグのどちらを食べるかを訊く場面。くどくなるが正確に訳すと次のようになる

 “それはいい!フェルプスさん、どちらの皿をお渡ししましょうか?鶏肉のカレー?それとも玉子?それとも自分で皿をお取りになりますか?”

 フランス式配膳法では相手に皿を渡してあげるか、自分で皿を引き寄せるかの選択になるので、こういう翻訳になる。

 ところがフェルプスは食欲がないので何も食べたくないと回答。そこでホームズは、フェルプスの目の前にある、まだ蓋がかぶさった皿を自分が食べたいという。

 "I suppose that you have no objection to helping me?"
 “申し訳無いが、その皿を私にお渡しいただけますか?

 そこでフェルプスが皿を渡そうと蓋をはずすと、そこに盗まれた海軍文書が現れるのである。

 次に、取り皿に取ったカレーはどういう食器を使って食べるのかについて。


 無料公開部分はここまでです。この頃のイギリスのカレーは、スプーン、もしくはスプーンとフォークを使って食べました。そこには、イギリスのカレーならではの事情があったのです。詳しい説明は『新しいカレーの歴史 上』を参照してください。

続きます