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新刊無料公開『新しいカレーの歴史 上』 「ビートン夫人に学ぶシチュー(stew)」(その1)

新刊『新しいカレーの歴史 上』〈日本渡来以前の諸国のカレー〉発売中です。よろしくお願いいたします。

新刊では海外の最新研究動向をふまえ、嘘・間違いだらけの日本のカレー史研究を全面的に刷新します。

19世紀イギリスのカレーはstewの一種として認識されていましたが、当時のstewは現在の日本の「シチュー」や、現在のイギリスの「stew」とはその概念自体が全く異なります。

かつてのイギリスカレーを理解するためには、かつてのstewがどういうものであったかを理解する事が必要です。

『新しいカレーの歴史 上』より、19世紀イギリスのstewとは何かを説明した「ビートン夫人に学ぶシチュー(stew)」部分を公開します。


「ビートン夫人に学ぶシチュー(stew)」(その1)


 “Thirdly, British cooks routinely thickened curries by making a roux of curry powder mixed with flour, a technique which was used to thicken stews and casseroles.”(Collingham 2006:143)
 “第三点目として、イギリスの料理人はつねづねカレー粉を小麦粉と混ぜたルーを入れて、カレーにとろみをつけていた。シチューやキャセロール料理にとろみをつけるときに使われる手法だ。”(コリンガム 2006:187)

 この一文の内容は全て、19世紀以前のイギリスの料理書を読んだことのないリジー・コリンガムが捏造した嘘である。

 既に述べた通り、“カレー粉を小麦粉と混ぜた”ものは19世紀イギリスの料理書では「ルー」とはよばないし、当然ながら使うこともない。小麦粉をバターで炒めた本来の意味でのルー(roux)をカレーに入れることもほとんどない。

 小麦粉を入れないカレーレシピも多い。小麦粉をいれる場合でも、ビートン夫人のカレーレシピでは1パイント(568cc)の水分に対しテーブルスプーン1杯(15cc)という少量の小麦粉なので、とろみはほとんどつかない。

 ルーが“シチューやキャセロール料理にとろみをつけるときに使われる”というのも嘘だ。これらの料理にもルーは使わない。コリンガムは19世紀以前のシチューレシピ、キャセロールレシピを読んだことがないのだ。

 ビートン夫人の『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』をテキストに、日本渡来時のイギリスのシチューとはどういう料理だったのかを確認してみる。というのも現在の日本のシチューと、19世紀以前のイギリスのstewとでは、その意味が全く違うからだ。第一章で述べたように、イギリスに渡来したカレーはstewの一種として認識されていたが、当時のイギリスのstewは、日本のシチューとは本質的に別物の料理なのである。


 1861年の『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』には、46種のシチューレシピが掲載されている。

 その全てにおいてルー(roux)は使用されていない。そもそもルーとは、基本的にソースのとろみ付けに使うものであって、ビートン夫人の場合ソース以外に使用する例はごく稀(2~3件)なのである。

そして46種のシチューレシピのうち、stewが名詞、つまり料理名として使われている例は2つしかない。

 一般的にstewは、stewedあるいはto stewといったように動詞で使われる。つまり、stewとは「シチューする」という調理法なのである。stewed+材料、to stew+材料というように、調理となる材料とペアになって初めて料理名として成立するのだ。

 現在の日本においては、シチューは「西洋煮物料理」を意味するが、19世紀のイギリスにおいては、特定の調理法で煮た煮物のみをstewとよぶのだ。

 実際のシチューレシピを見てみよう。『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』の「STEWED BEEF WITH OYSTER(Cold Meat Cookery)」(Beeton 1861:311)と、それを翻訳した『西洋料理通』の「ステートビーフ 蒸牛と牡蠣の義」

『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』の「STEWED BEEF WITH OYSTER(Cold Meat Cookery)」(上)と『西洋料理通』の「ステートビーフ 蒸牛と牡蠣の義」(下)

 この文中にある“cover the stewpan closely, and let it simmer very gently”こそが、stewという特定の調理法。鍋を密閉できる精度の高い金属製の蓋をかぶせて、中の蒸気を逃さないように弱火で沸騰させずに煮る調理法がstewなのである。

ビートン夫人によるstewingの説明(Beeton 1861:263) 右がシチュー専用鍋stewpan
このように蓋が密着した鍋でsimmerする(弱火でじっくり煮る)調理法がstewing

 従って、圧力鍋やル・クルーゼやストウブやビタクラフトなどの、密閉できる蓋つきの鍋で弱火で沸騰させずに煮れば、肉じゃがもぶり大根も豚の角煮もstewであるし、雪平鍋で蓋をせずに「シチュー」を作っても、それは19世紀のイギリスにおけるstewではないのだ。

 雪平鍋のような日本の伝統的な鍋には、密閉可能な金属製の蓋というものが存在しない。隙間があり蒸気が逃げる木製の蓋か、落し蓋しかないのだ。日本で密閉する鍋といえば、分厚い木の蓋で密閉して加熱する、羽釜を使った炊飯ぐらいのものだ。ただし羽釜で炊いたご飯は、強火や中火で沸騰させているのでstewではない。

 『西洋料理通』におけるstewに対応する訳語は、「蒸」「蒸煮」「煮」などブレて定まらない。stewという調理法に対応する日本語、あるいは概念自体が、昔も今も日本には存在しないからだ。

 日本のように水が豊富でないからか、あるいは魚とは違い、スジが入った硬い部分が多くある獣肉を柔らかく煮る必要があるからか、イギリスやフランスでは圧力鍋的に密閉する調理法と、それに対応する鍋と蓋が昔から発達している。

 現在は日本製の圧力鍋や、金属製の蓋が鍋に密着する日本製の鍋も存在しているが、圧力鍋もル・クルーゼもストウブもビタクラフトも欧米発祥の鍋であり、日本製品はそれらのモノマネ製品にすぎない。

 stewという名はついていないが、stew料理の本質がわかる料理を紹介しよう。「THE INVALID'S CUTLET」(病人向けカツレツ)だ(Beeton 1861:899-900)。

『BEETON'S BOOK of HOUSEHOLD MANAGEMENT』の「THE INVALID'S CUTLET」

 ティーカップ2杯の水で2時間じっくりマトンをstewする料理。病人が消化しやすいように、豚の角煮のようにホロホロと煮崩れるまでstewするわけだ。マトンの角煮塩コショウ味といったところだ。


その2に続きます。