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幸福は量子のような挙動をするかもしれない話


いつも何かが足りないと思う。

幸せになるのには
もっとお金が必要な気がする。
尊敬されることが必要な気がする。
理解されることが必要な気がする。

何もしていないのに胸がドキドキしたり、
肩がすごく凝ったり、
頭にもやがかかったみたいにぼーっとしたり、
胸のあたりになにか重いものが入ってるような
感覚がして、

そのうち何もできなくなってしまって、
動画を延々見続けちゃったり、
漫画を延々読み続けちゃったり、
2ちゃんねるのまとめを延々読み続けちゃったり、して。

やめたい、やめたいって思いながら次、
次と手を伸ばして。
もう面白くないのに、何もいいことないのに、
って思うのに、でもなんでか止められなくて。

そのうち何にも笑えなくなったり、
立ち上がれなくなったり、
外に出られなくなったり、
ゲボを吐いたり、
涙が急にでたり、して。

故郷を思い出したり
昔の仲間とか、昔の自分を思い出したり、
家族を思い出したり、して。

あの頃に戻れたら。
もっと前に戻れたら。

母の胎内にずっといられたら。

そう思う時もある。


幸福に生きる、っていうのは、かくも難しいものなんだろうか。

頑張って大学受験して「いいとこ」入って、頑張って入社試験受けて「いいとこ」入ってみたけど。

でもそれって、結局社会的な評価とかお金とか、そういうものを追いかけて必死こいているだけだったりして。

いざ大学入ってみても、リクルート入ってみても、

もっともっとやらなきゃ。
大きい仕事したり、活躍して表彰されたり、お金を沢山稼いだりしなきゃ。そんな気持ちがふくらんでいくばかりで。

結局何を頑張って追いかけているのか、いつになったらこれは終わるのか、って思うと不安で仕方なくなって現実逃避したくなる。

漫画みたり2ちゃんみたりとかするけど、
それやってても結局現実から逃げてるだけで。

でもやめられなくて。

やめられない自分にも嫌になってくるけど、
でも不安な気持ちから完全に開放されることもできなくて、

いつもどうしようどうしようって思いながら生きてる。

今までは結局、幸福でいるためには
お金とか社会的な評価がないとだめだと思って頑張ってきたけど、

結局幸福を感じるのって、

運動したり、
家族とのんびり過ごしたり、

仕事するにしても、お金がどうとか表彰がどうとかって考えてるときじゃなくて、めっちゃこだわって何かしてたら、気がついたら時間めちゃ経ってたわ、ってときだったりする。

お金もらえたり褒められたりお礼を言われたり、ってことに紛れて、そっちが喜びの源泉のように感じちゃうけど、
実はひとり黙々と夢中で何かをやってるとき、それ自体が幸福だったりする。

幸福というものが実体を持っていたとしたら、それはどんなものなんだろうか、と思う。

大きいのだろうか、小さいのだろうか。動いているのだろうか、隠れているのだろうか。

と考えるとき、最近ちょっと勉強した量子の性質に近いような、そんな気がするな。と思う。

量子というものは不思議なもので、確かに存在はしているものの、実際に観測するまではそれがどこにあるか、どんなものかは「確定しない」らしい。「観測する」ということ自体がその状態に影響を与える、という、直感とは反する性質を持つそうな。

では観測するまではどんな状態なのかといえば、どこに存在してもおかしくないけど、このあたりに存在する確率が高そう、みたいな「確率」として存在しているらしい。

多分厳密には間違ってるんだけど、そんな感じ。

というわけなので、幸福を探しに行くときは当然、確率の高そうなところを探すのが良さそうなわけで。

考えてみて思ったのは、「社会的な評価」「お金」みたいなものって、価値尺度として一般的だけど、それが個々人の幸福にそれがどれくらい寄与するか、っていうのは切り分けて考えてみたほうが(少なくとも僕にとっては)良い。ということ。

テレビでいうと、もう終わったけど「クレイジージャーニー」とか、今でもやってる「激レアさんを連れてきた」に出てるような、超偏ってる(でも幸せそうな)人たち。

はたから見ると面白い、ぶっ飛んでる、変わってる、って評価を受けるけど、でも本人は毎日普通に幸福に生きていて、

僕もどちらかといえばそんな人生を送ってみたいものだ、と思った。

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