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穢された言葉、穢された自分。

あなたの言葉は、あなたを穢しているかもしれない。

■穢れとはなにか

穢れという概念については、誰もが知っていることだと思う。ただ、その意味を正確に理解しているだろうか。

広辞苑によれば、きたないことやよごれといった、不潔や不浄なことももちろん、神前に出るのをはばかるようなこと……一般的には喪に服していたり、女性の月経などを指して言われることが多い。

ここまでは、誰もがなんとなくわかると思う。だが、それ以外にもこんな意味がある。

それは、名誉を傷つけられることだ。

その人の地位を貶めたり、品格を下げるようなこともまた「穢れ」なのである。

■「穢れ」は伝染する

普段自分が使っている言葉を振り返ってみた時、自分でもなぜ口にしたのかわからないような言葉が出てきたことはないだろうか。そして、たいていその手の言葉は「言わなくていいのに……」と思われるものが多い。

実はそれは、身近な人間から「穢れ」が感染ってしまっているのだ。

といっても誤解しないでいただきたいが、「穢れ」た言葉は、決して粗雑な言葉や否定的な内容とは限らない。たとえば、ガード下の居酒屋で飛び交うような荒っぽい会話や、あるいは誰かを槍玉に挙げるような記事などは、必ずしも「穢れ」ているとは限らない。ネガティブな言葉がすなわち悪いということではないのだ。その好みや相性はあっても「穢れ」とは全く意味が違う。

これについては、石田礼助氏の有名な言葉を借りるのがわかりやすいかもしれない。すなわち「粗にして野だが卑にあらず」という、あの名言である。

「穢れ」は、粗であろうと野であろうとも、なんらまとわりつくことがない。しかし、卑であったその瞬間、その言動は「穢れ」てしまうのである。

さて、では卑とは何か。漢語林によると「いやしい」が主な意味のようだ。では「いやしい」とは何かを広辞苑で調べると「身分や地位が低い」「貧しい。みすぼらしい」「とるにたりない」「下品である」「さもしい」といった、納得感のある意味が並んでいる。確かにこれは「穢れ」と言って差し支えないだろう。

そして、最後にこんな項目があった。

「食物などに対する欲望が、むき出しである。いじきたない」

欲を晒している状態、その欲を優先している状態は、実にみっともない。みっともないとは「見たくもない」ということ。つまりは人が離れていくような状態であり、それこそが「穢れ」である、ということなのだ。

■「穢れ」ることは人が離れること

一般的にみっともないとされることは、すべて「穢れ」と言っても構わない。そうした行動を無意識にしている時は、一度自分の心をチェックしたほうがいいだろう。

この時基準としたほうがいい考え方は「自分を下に見ていないか」ということだ。

自分というものに対する価値基準が下がっていると、平気で「穢れ」た言動を選択してしまう。

誰かや何かをバカにしたり、否定したり、からかったり、嘲ったり、陰口を叩いたり、敵視したり、疑ったり、疑われていると思い込んだり。

わざと自分が低く思われるような行動を取ったりすることも危ない。「私バカなんで」「自分はなんにも出来ないから」なんて、冗談でも言わないほうがいい。その言葉は、誰かから移された「穢れ」だ。

「人は低きに流れる」などというが、低い方に流れたいと思う人はいない。自分から自分の価値を下げることは、人が遠ざかる一方でなんのメリットもない。それでいて、あなたの価値を下げる人ばかりがやってくるから余計に厄介だ。

■理想の自分にとって不要なものは全て「穢れ」

よく自己肯定感が低いなどというが、どちらかといえば「自分がなりたい自分が見えない」と言ったほうが近いように思える。

尊敬する人や好きな人がいて、その人と一緒に見合う自分でありたいと思えたら、あるいはやりたいことや叶えたい夢があって、そのためにどんな自分であることが必要かがわかっていれば、自ずとどんな自分になりたいかは見えてくるはずだ。

そして、そんな「なりたい自分」にとって不要なことは、全て「穢れ」だ。

あなたが理想とするあなたは、そんなことを他人に言うだろうか?周りの人にそんな態度を取るだろうか?プライベートで一人のときだって、もっとあなたを大切にしていないだろうか?

そこに入ってくるノイズこそが「穢れ」だ。

といっても、自分の感情はそういう「穢れ」を好き好んでいたりするから、厄介なものだ。清濁併せ呑むという言葉はあるが、この場合の「濁り」と「穢れ」は別物である。

広辞苑によれば「濁り」には「けがれ」などの意味もあったが、そもそも一番の意味は「澄んでいないこと」に過ぎない。

「理想の自分」を思い浮かべれば、そこには様々な要素が入ってくるだろう。だが、そこに不要なものを入れる隙間などあってはならない。

たとえば、まだ使われていないキャンバスを思い浮かべてほしい。

様々な人に会い、様々な経験をしていけば、自分という色だけで塗り続けることは難しいだろう。だが、使いたくもない色で、自らのキャンバスを染めてはいけない。もしかしたら、誰かが余計な色を足そうとしているかもしれない。間違って塗ってしまえば、いつの間にかキャンバスは穢されていく。それでも、自分が使いたい色をきちんと考えて、丁寧に塗り重ねることをこと続けられれば、そこにはあなただけの色で染まったキャンバスが存在するに違いない。


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