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親は「昔はモテてた」って言いはる生き物

たぶんだけど、世の中の親の8割は子供に向かって、「昔、俺/私はモテた」って言ってる気がする。

今まで、いろんな友達と話したけど、モテなかったって言った親の話が出たことがない。

私の父親は、そう言うことを話す人じゃなかったけど、私の母親は、きっちりそう言いはってた。

もちろん、子供の私としては、そんなことを嬉々として話す母親を、「ふーん。あっ、そう」という生暖かい疑惑の目で見ていたんだけど。

私がまだ中学生の頃、なにやら荷物の整理をしていた母親に呼ばれて部屋に行くと、昔の大学時代の成績表やら写真やらをまわりぶちまけて、感傷に浸っている様子で写真を見つめていた。

「ねえねえ、この間言ってた、お母さんのこと好きだった人、この人」
と、私に古い白黒の写真を差し出した。

その写真は、公園だか大学の敷地内なんだかで、若者たちがにっこりともせず、なんとなく一箇所に集まって座っているグループ写真だった。

「この人、この人」

指をさされた人は、父親よりずっと、今でいうところのイケメンだった。

「えー、こっちの方がいいじゃん。こっちにしとけばよかったのに」
という、自分の存在を真っ向から否定する発言をする私に、
「そうなんだけどさ、この時は知らなかったのよ。この間、同窓会であった時、そうやって言われてさ」
と、これまたDNAをまるっと無視する発言で応酬する母であった。

確か、私の父親と母親は、誰か知り合いの伝手で知り合って、云々と聞いている。

当時まだ、中学生だった私は、父親と知り合う前の思い出を語る母親を不思議な気持ちで見ていた。

『お母さん』としてしか見てなかったけど、「私たちのお母さんになる以前にも、お母さんは存在してたんだなあ」と。そして、お母さんの生活の中に、お父さん以外の男の人、ってものも存在してたのか、とも思った。

今となっては当たり前のことだけれども、その当時の私は、ショックではないにせよ、新鮮な気持ちで、写真をじっと見つめる母親を見ていた。

その後も、実は母親が何気にモテる人だったらしいことは、親戚のおばちゃんたちからも伝わってきた。

「私は昔、モテてたのよ」という母親の言葉も、徐々に信ぴょう性が出てきて、まあ、今となっては、ルックスはともかく、世話好きで、明るく、それでいて芯の強いところもある性格だから、案外本当にモテてたのかもしれない、と思っている。

そして、私も子供達に「私は昔、モテていた」と言い張っている。もちろん子供たちはまったく信用していない。

でも、実際、先日久しぶりに電話で話した日本の友人にも、
「あんたって、なにげにモテるよね」と言われたんだもん。

まあ、「なにげに」ってとこがポイントなんだけど。

まあ、見た目はモテそうにないってことよね、それって。

まあ、それは認める。

でも、その友人がいうところの「モテる」も、一般的な意味ではもちろんない。

自分が思う人には、ことごとく玉砕人生なのは間違いない。

ただ自分のレーダーからまるっきり外れてる人からは、好意を持たれることがたまにある。

学生の頃のバイト先だった、ビデオ屋の禿げ散らかした店長とか、
友達の知り合いの怪しげな超金持ちバツイチおじさんとか。

アメリカ時代は、同じ日本食レストランで働いてたメキシコ人の高校生に「お相手として参加して欲しいけど、無理だよね?」って真っ直ぐな目でプロムに誘われた。でも18歳に混ざって、30近い私がドレス着てパーティは無理すぎる。

カナダにきてからも、ボクササイズのクラスに通った時、80歳くらいの元牧師のじいちゃんに熱烈にアタックされて、ジムの人に、やんわりとクラス替えを勧められたり。

相手が濃いのよ、いつも。

甘酸っぱい感じにいかないのよ。

でも、そんな思い出をかき集めて、「私は昔、モテていた」って子供には言い張っている。

しかし、なんで、子供にそう思って欲しいんだろ。

なんかこう、私が母親に思っていたように、私の人生は『母親』という役割だけではなかった、ってことを知らせたいのだろうか。

それとも離婚してからも、一切、恋愛に興味がないから、昔の思い出に縋り付いているのだろうか。

我ながら謎。

〜終わり