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小川さやか  『チョンキンマンションのボスは知っている  アングラ経済の人類学』 春秋社

香港のタンザニア人が集うチョンキンマンションにおける人びとの交流を通して、彼らの独特な人間関係が描きだされている。「独特」と書いたがそれは私の主観でしかなくて、彼らにとっては「普通」なのであるが。

著者は「そもそも彼らは他者の過去や現在の状況を詮索せず、人間はいつでも豹変しうることを前提にしながら、そのつどの状況・文脈に限定的な信頼を構築している。」ことを様々な具体的事例を上げながら何度も強調する。これは私には、日本人の人間関係とほとんど真逆のように思えた。日本人は、他者の過去や現在の状況を詮索し、人間関係を固定させることを前提としながら、そのつどの状況・文脈によらない一貫した信頼を構築しようとする。

筆者は「本稿が主な対象とするのは、香港に長期に不安定滞在をする人びとであるが、彼らも『定住者』ではなく、いつ何時どこか別の地域に移動してもおかしくない『緩慢な移動者』に過ぎず、また彼らのコミュニティには『頻繁な移動者』も参与しており、そもそも『安定的なメンバーシップ』をもつコミュニティという発想が彼らの動態に適していないことは、彼らの組合を理解するうえで重要である。」と書いている。つまり彼らのコミュニティのあり方は彼らの生き方に関わっており、「他者の過去や現在の状況を詮索せず、人間はいつでも豹変しうることを前提にしながら、そのつどの状況・文脈に限定的な信頼を構築している」のは、彼らの生きる智慧なのである。

私個人としては、本書に書かれているような人間関係は非常に魅力的に見えた。著者の小川があとがきで書いているように、「他者と深くコミットができなくても、社会は築けるんじゃないか」という気にさせてくれるからだ。

少し長いが、以下は私が個人的に大切だと思う箇所をメモとして引用したものである。


  • (中略)「おまえはウジャンジャ(Ujanja)じゃない(賢さが足らん)」と時に呆れながら、「うまく騙すだけでなく。うまく騙されてあげるのが仲間のあいだで稼ぐうえでは肝要だ」「お前の騙し方は、バランスが悪い」など商売の鉄則を指南し、その独自の智慧と実践を通じて「騙し騙されながら、助け合う」社会的世界を創出する方途をさまざまな方法で教えてくれた。(P13)


  • 長く香港で商売をしているタンザニア人たちは、どこで何が取引されているのか、誰がどんな犯罪に関わっているのか、特定の行動がどのような意味を持つものかを知っている、あるいはうすうす気づいている。だが、だからといって彼らとのつきあいをやめるわけではないし、距離を置いた表層的なつきあい方ばかりをしているわけでもない。特定の人びとが友人としてみせている一面においては、それはそれとして真剣につきあっている。


  • 香港のタンザニア人たちは、「みなそれぞれのビジネスをしている」「他人の人生は他人のものである」などと言い、あまり他者の生き方に口をださない。だが彼らは「信用するな」と言いながらも、偶然に出会った得体の知れない若者を気軽に部屋に泊める。(中略)表稼業と裏稼業、表の顔と裏の顔、ペルソナと素顔のような二分法的な人間観において「信用」を説明することと、個人的なつきあいにおける他者に対する「信じる」「信じない」は別物であり、彼/彼女の別の顔に踏み込まずとも、別の顔に全面的に信頼が欠如していても、特定の顔において真剣に「信頼」を争うことはできる。「友情」について考えているときの信頼は、本来そういうものかもしれない。それは無関心ではなく、様々な事情を汲んであえて無関心を決め込むという配慮でもある。(P51-52)


  • 本稿が主な対象とするのは、香港に長期に不安定滞在をする人びとであるが、彼らも「定住者」ではなく、いつ何時どこか別の地域に移動してもおかしくない「緩慢な移動者」に過ぎず、また彼らのコミュニティには「頻繁な移動者」も参与しており、そもそも「安定的なメンバーシップ」をもつコミュニティという発想が彼らの動態に適していないことは、彼らの組合を理解するうえで重要である。


  • カマラたちと暮らしていると、組合活動への実質的な貢献度や、特定の困難や窮地に陥いることになった「原因」をほとんど問わず、たまたまその時にいた他者が陥った状況(結果)だけに応答して、可能な範囲で支援するという態度がひろく観察される。それは、死という特別な事態に限らない。また組合活動や他者への支援に関わる細やかな規則や規範を可能な限りつくらない/曖昧なままにしておきたいという思惑もあることがわかる。(P79)


  • 前述した通り、彼らは常々「誰も信用しない」と断言している。それは、「素性」「裏稼業」を知らないからというより、誰しも置かれた状況に応じて良い方向にも悪い方向にも豹変する可能性があるという理解に基づいているように思われる。(中略)つまり、「ペルソナ」とその裏側に「素顔」があって、「素顔」が分からいから信頼できないのではなく、責任を帰す一貫した普遍の自己などないと認識しているようにみえるのだ。(P82)


  • 要するに、彼らは「助け合う人間を区別・評価する基準を明確化すること」と「助け合いの基準・ルールを明確化すること」のどちらもしていない。むしろ彼らの組合運営やそこでの相互扶助は、厳密な基準や取り決めによって「互いに無理やストレスを強いること」をできるだけ回避すること、をルールとしているように思われる。(P84)


  • 彼らの日常的な助け合いの大部分は「ついで」で回っている。例えば、二◯一七年一月頃、カラマたちはオーバーステイの罪状で三ヶ月収容され、刑務所から出てきたマバヤの面倒を見ていた。マバヤが無一文になったことをカラマは知っており、昼食や夕食の時間に偶然に彼と居合わせた時には彼に奢っていた。だが特に彼を気にして誘う様子は見られず、タイミングが合わなければ、それっきりだった。(P84)


  • カラマは、本気で彼らを怒らせないように時々なだめる必要があると言いながらも、そもそも自分たちを対等であるとみなしていない人々に対しては、「扱いやすい人間」にならないことが肝要であると説明した。(P98)


  • これまでも述べてきたように、そもそも彼らは他者の過去や現在の状況を詮索せず、人間はいつでも豹変しうることを前提にしながら、そのつどの状況・文脈に限定的な信頼を構築している。(P152)


  • 相手が何者で何をして稼いでいるのか、なぜ良い人なのに悪事に手を染めているのか、なぜ彼/彼女は私に親切にしてくれるのかといった問いと切り離して、共に関わりあう地点を見つけられうるのは、彼らが商売の論理で動くからである。(P231)


  • いま私たちが生きている世界では「安心」「安全」が叫ばれ、未来を予測可能にし、リスクを減らすべきだという考え方が全面に押し出されている。この考え方は、「くれるという確約がないと与えることができない」社会的習慣を強化し、即時的に「貸し」「借り」を精算しようとする態度を生みだす。メールも親切もすぐに返さないと不安だ。どうなるかわからない将来に借りを残しておくのは心配だ。そうした関係では私と与えたものと相手がくれたものが等価であるか、その場その場で貸し借りの帳尻があっているかが常に気になる。そこで、どちらかが「損をしている」と感じると、好循環の相互性はやすやすと、悪循環の相互性へと転化する。「私だけが頑張っている」「私だけが損をしている」という不満とそれが生みだす恐怖ーたとえば、ヘイトスピーチなどーは、現代の日本において、友人関係や夫婦関係など人間関係をもつことへの煩わしさから、年金や生活保護といった社会制度に対する不信までを覆っている。(P241-242)


  • 第2章で述べたように、彼らの日常的な助けあいの部分は「ついで」で回っていた。案内して欲しい場所が目的地への通り道なら連れて行くし、ベッドが空いていたら泊めてあげる。知っていることなら親切に教えるし、ついでに出来ることなら、気軽に引き受けてくれる。(中略)誰もがついでに便乗してやっているという態度を表明しているので、この助けあいでは、助けられた側に過度な負い目が発生しない。親切に即時的な返礼がなくても気にしないようにすることが目指されているのだ。(P243)


  • 香港のタンザニア人たちは「あれが儲かる」「この仕事にはこんな旨味がある」ち様々なアイデアを語るが、実現に向けて着々と準備したりはしない。実際に彼らは、「ゆとり」どころは暇をもてあましてもいる。なぜなら、彼らは、偶然に出会った人びとに自身のアイデアを投擲し、自身の要望に合致する機会を持つ他者が応答する好機をただひたすら待つだけであり、事業計画を練ったり根回ししたりするために忙しく立ち回らないからだ。偶然、自身の働きかけに応答した他者によって商売や生き方を決めるやり方は、大海原にいくつもの釣り糸を垂らし、引っかかった魚でどんな料理にするかを決める方法と似ている。(P244)


  • ソーシャルネットワークでは、助け合いが間接的に行われる(間接的互酬性)。そこではもう『わたしがあなたを助ければ、あなたが私を助けてくれる』という単純な前提は成り立たない。いまどきの助け合いの仕組みは、『私があなたを助ければ、だれかが私を助けてくれる』というものだ。(P249)

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