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護身法

真言宗では、護身法(ごしんぼう)という作法を行うのが常となっています。手に印を結んで、真言を唱えながら、心を一点に集中させていきます。勤行や法要を勤める際、まず初めにこの護身法の作法をし、自らの三業(さんごう)を清らかにします。

三業は、身(しん)・口(く)・意(い)の三業といいますが、仏教ではわれわれのはたらきを身体的なもの、言葉によるもの、心によるもの、というように3つに分けて考えます。人間の体には自我や欲望が付きまとっていますから、意識しなければそういったものによって、汚れた三業を日々行っているということになります。

汚れた三業を続けていては、自我や執着心は増大されていくばかりとなります。自我や執着心は尽きることがありませんから、一旦満たされても、またさらに湧いてくる、というのが仏教の考えです。その状態では、一生苦しみに追われる人生となってしまいますし、他者との良い関係を築いていくことも難しいでしょう。自我を極力減らし、他者との慈悲溢れた関係をもって生きていくことが、最も幸せな人生への近道といえます。

そこで、われわれ真言密教では、手に印を結んで、言葉では真言を唱え、心を鎮めることで、その三業を清らかなもの、清浄(しょうじょう)なものとすることを大事にします。自我を抑え、心を鎮め、同時に他者への慈悲の心を育むための作法が護身法なのです。

われわれ真言密教のお坊さんは、まず護身法を行ってから、読経や法要に臨んでいきます。自らの行いを清めてから、仏さまへと向かいます。印を結んだり、真言を唱えることによって不思議な力が湧いてくるとか、不可思議な仏さまからの加持が得られるということもありますが、それに加えて、この護身法を日々行うことで、自らの行いを振り返っていき、仏さまの力だけでなく、自らが主体的に自身を磨いていく意志をもつことがより大切です。

三力という言葉があります。我功徳力・如来加持力・法界力の3つの力です。如来とは仏さまのことです。仏さまの偉大な力がわれわれに加わるというが如来加持力です。法界力というのは、不可思議な自然の力とでもいえましょうか。自分の力ではどうにもならないことがたくさんあります。雨が降っていてそれを止めることはできません。車を運転していて、誰かが事故を起こして渋滞にならないようにと思っても、それをコントロールすることはできません。

晴れてほしい時に雨が降ったとしても、それも縁であり、渋滞にはまってしまっても、それも縁であると説くのが仏教です。われわれには良い縁があれば悪い縁もあります。良い縁だけに出会いたいですが、そうもいかず、全てひっくるめて今の自分がいるのです。そういった、自然環境も含めた、自分ではどうにもならない不可思議な力が法界力というものです。

そして、我功徳力とは、自分自身の努力、精進によって得られる力のことです。目には見えませんが、良い行いは自分の心の奥底に蓄えられていきます。因果応報とか善因楽果という言葉がありますが、自分が善いことをすると、良い結果が後に現れてくると説くのが仏教です。いつ良い結果が出てくるかはわかりませんが、善い行いは心の奥底に種子(植物の種に喩えられる)として、貯蔵されているのです。

つまり、三力があって、修行の道もあるということになります。仏さまの力だけではだめだし、そこには当然自分自身の努力も必要です。ついでに法界力というものも関係してくるのです。

ここでは、密教に特徴的な、護身法について述べていきます。通常、護身法は師匠から弟子へと口伝によって伝えられ、伝授という儀の中で詳しく教授されるものですので、こういった場で一般に詳細に説明することはできませんが、伝えられる範囲で、護身法について述べていきたいと思います。また、私自身が修行し、日々、護身法をしている中で感じることも述べていきたいと思います。

一連の流れ 

1.浄三業(じょうさんごう) まず、三業全体を清らかにすることを念じる。

2.仏部三昧耶(ぶつぶさんまや) 身業すなわち、身体的なはたらきを清らかにすることを念じる。

3.蓮華部三昧耶(れんげぶさんまや) 口業すなわち、言葉によるはたらきを清らかにすることを念じる。

4.金剛部三昧耶(こんごうぶさんまや) 意業すなわち、心によるはたらきを清らかにすることを念じる。

5.被甲護身(ひこうごしん) 仏さまの慈悲を力を自身がまとい、他者を救済する力が具わることを念じる。

これが護身法を一連の流れです。それぞれ、まず、手に印を結んで、真言を唱えます。その後、観想の文を唱えるか、心の中で観じます。

浄三業 

蓮華合掌という合掌をし、真言を唱えます。

観想の文では、自分の三業からなされる悪い行いを断じ、清らかにし、心の汚れをすっかりなくすことを念じます。悪い行いというのは、少し具体的にいえば十悪ということになります。よく十善戒という言葉が聞かれます。不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見を守ることが十善であり、これが守れないと悪い行いであるということになります。

不殺生…あらゆる生命を尊重する。                  不偸盗…他人のものを尊重する。                   不邪淫…お互いを尊敬しあう。                    不妄語…正直に話す。                        不綺語…よく考えて話をする。                    不悪口…優しい言葉を使う。                     不両舌…思いやりのある言葉を使う。                 不慳貪…惜しむことなく施しを行う。                 不瞋恚…にこやかに生きていく。                   不邪見…正しく判断する。

これを守っていこうというのが十善戒であり、仏教を信じるものは、日々このことを意識して、習慣化して生きることが大事になります。もし、守れていないと思ったら反省して、また守れるように努力すれば良いのです。

というように、護身法によって、印と真言を唱え、それでもって三業を清らかにするというものではなく、それを通して日々自分の行動を振り返っていくことを繰り返していくことがさらに重要なことだといえるでしょう。

この護身法を阿闍梨(密教の師匠)から習ってからしばらくは、なぜ真言を唱えて、念じることで三業が清らかになっていくのだろう、と疑問を感じていたのが私の感覚でした。ただ、この頃になって、観想の文をしっかりと唱えて、反省の念をもつことがとても重要なのだと感じられるようになりました。

仏部三昧耶

曼荼羅の仏部にいる仏さまに対して祈り、自身の身業、すなわち身体的なはたらきを清らかにすることを念じていきます。

印と真言の後、観想の文では、速やかに身業が清浄になって、過去行った悪い行いが消え去って、功徳が増していくようにと観じます。身業は、十善戒で示した不殺生・不偸盗・不邪淫のことだと考えても良いでしょう。つまり、むやみに殺生しないで、命を大切にすること、他人のものを尊重すること、道徳的に良い行いをして、他者に対してその人の尊厳を欠くようなことをしないことなどです。

これも先ほどのことと同様で、ただ単に印と真言によって身体的なはたらきが清らかになっていくのではなく、一心に念ずるのとともに、観想しながら自身を顧みていく姿勢が最も重要なことだといえます。

蓮華部三昧耶

八葉の印という印を手に印を結んで、真言を唱えます。それによって観音菩薩などの仏さまに対して、自身の口業、すなわち言葉によるはたらきが清らかになることを念じます。

観想の文では、ただちに、自身の語業が清浄になり、音声が威厳のあるものとなり、周りの人がその説法を自然と聞き入れるようになる、ということを観じます。

やはり、人の話というのは自然と耳に入ってくる場合と、なんとも耳に入ってこなかったり、眠たくなったりもあるでしょう。とある政治家は、なかなか人の演説を聞いてもらえず、唾を吐きかけられたこともあったと述べていましたが、それなり知っている人や友人の話であれば聞く耳をもつことでしょうが、全く知らない人の話はなかなか聞き入れてもらえないものです。

お坊さんも同じで、その話の内容が興味深いものでなければ聞いてもらえませんし、その話す人の人格がしっかりとした、誠実なものでなければなかなか聴衆も集まらないことでしょう。その点、この護身法によって、自分が普段から誠実に生きているかを顧みて、また、説法の内容が充実したものとなるように、日々勉強して、聞く人々のためになるものを説けるように努力していく意志を高めていかねばなりません。

金剛部三昧耶

三鈷杵の印を結んで、真言を唱えます。曼荼羅の金剛部の仏さまに祈り、意業、すなわち心のはたらきを清らかにすることを念じます。

観想の文では、意業が清浄になることを得て、菩提心をあらわになって、乱れた心が整い、解脱に到達すると観じます。

菩提心(ぼだいしん)は難しい言葉ですが、簡単に言えば、悟りを得ようとする心といえます。あるいは仏さまの心に目覚めるということでもあります。仏教では、誰にでも平等に、菩提心、仏の心があると説いています。

確かに考えて見れば、普段の生活の中では多くは、自分の為にという思いで生きているかと思います。しかし、ふとしたとき、自分の子供や家族、仲の良い友人や困っている人に対して、自分の利益を無視してでも手を差し伸べようとする心が起こってくることは、誰にでもあるでしょう。

それがまさに、仏の心といえます。それが一瞬であってもそれは仏の心です。それに目覚めるのが、菩提心を興すということだと思います。これも同じで、真言を唱えるだけで、菩提心が興ってくるかといえばそうではなく、それとともに自分自身の意識の持ちようが大事です。ふとしたときに現れる仏の心に気づいていく、日ごろからその気づきを大切にしていきていくことの素晴らしさを示しているのが、この護身法だといえます。

誰にでもこのような心のはたらきがあるのですが、やはりそこには遺伝子や、家庭や周囲の環境によって、大きな差があるのかもしれません。犯罪を起こすような人は、周囲に自分にとっての大事な存在があまりいないとか、周囲からあまり愛情を受けられていないのだろうなと感じることがあります。同じ人でもあっても、周囲が愛情あふれた環境であれば、そうならなかったということもたくさんあるでしょう。

逆に、周りには自分が大事だと思っている人ばかりだと感じている人は、あらゆる人に対して、優しく、仏のような心で接することができるでしょう。そういう人に対しては、自然と愛情深い関係が築かれていくのでしょう。

いずれにしても、そういった普段の生活の中で、他者に対する仏の慈悲のはたらきというものを、それぞれの人が大事にしていき、それがどんどん連鎖していくことが、幸せな社会の実現へと繋がっていくと私は思います。

被甲護身

鎧の甲冑のような形に模した印を手に結んで、真言を唱え、仏さまの慈悲の力が自身に具わる事を念じます。

観想の文では、まず、自身が仏さまの大慈大悲の力をまとっていることを観じます。すると、あらゆる天部の神々や仏教の教えを理解しない者などが、光り輝く自分の姿を見て、慈しみの心を起こします。悪人も行者である自分に対しては何も手出しはできず、煩悩や悪い行いしようとするはたらきはなくなって、悟りへと導かれていく、ということを観想します。

つまり、護身法を行う僧侶に仏さまのオーラのようなものが現れることで、周囲にいる悪人などもひれ伏せ、仏教に帰依していきます、ということを説いているのです。良い例えかわかりませんが、水戸黄門の印籠によって皆が降伏する光景を想像すると良いかもしれません。

袈裟を身に付けたお坊さんの姿を目にすると、何となく厳かな雰囲気になるかと思いますが、坊主頭や服装によってのみならず、誠実な仏さまと同じ心を内面の具えているからこそ、表に現れてくるオーラのようなものを身に付けたいものです。

護身法の意義

ここまで護身法について説明してきました。経典には、「まず護身法を作さなければその法要は成就しない」と説かれているので、その点を取ってみても護身法という作法はとても重要なものだといえます。

しかし経典に書かれているからといって、何も考えずにその作法を形だけやっていれば良いのかといえば、決してそうではありません。ここまで述べてきたように、その作法を通じて、様々なことに気づきや自覚をもって、それを法要の中だけでなく、普段の生活の中でも意識しなければなりません。

私自身、修行を始めたばかりの時、護身法をはじめ様々な密教修行の特徴である、真言を唱えたり、手に印を結んで色々なことを観想するということを教えられてきました。この頃になってようやく何となくわかってきたのは、単に作法をするだけではあまり意味はない、ということです。

当たり前だと思うかもしれませんが、言葉でわかることと体でわかることとは違います。作法を続けつつも、その中で自分の変化などへの気づき、自覚が仏教修行において最も重要なことなのです。これは修行の領域に限らないことだと思います。日々の生活の中で、自覚のないまま生きていれば自分の変化への気づきが遅れてしまうかもしれません。

今は情報があふれる時代です。本や新聞といった限られた情報だけならよかったのが、ネットやスマホの登場で自分にとって不必要な情報に溢れています。インターネットの良い面は良い面として、それに振り回されないようにするにはやはり様々なことへの気づきが大切です。

一般の人への護身法の伝授というのはなかなか難しいのですが、身・口・意を清らかにすること、十善戒を守っていくこと、日々の生活での気づきを大切にすること、そういったことをも教えてくれるのがこの護身法なのだと思っています。





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