見出し画像

言語力の弱さ

日本の言語に関しての評価は、欧米と比べると低いと評価されます。
その理由を見ていきます。
まずは「アカデミック・ライティング」でしょうね。

論文を書く時に使用する<手法>です。
簡単に言います。
「論理的に伝わる文章を、相手が理解できるように書く」
って事です。
<話す>でもいいです。
論文を砕けた言い方や具体例で分かりやすく文章にするのをイメージしてください。
この「アカデミック・ライティング」を日本の中等教育ではほぼ習わないし、表面で知識だけを実施してきました。
言い方を変えると、「論文を読めないし、書けない」状態です。
これはすなわち「言語力が弱い」って意味にもなるのです。
例えば僕らのような研究者という生業なら論文は当たり前に読みますが、一般の人がなかなか論文を読んでいない状況は、こういう原因も強いのです。
論文に限らずとも、<新聞の社説>や<論説>でもいいんですが、なかなか読む人は少ないでしょう。

ここで勘違いしてほしくない事があります。
日本人の特徴として、こういった話をすると
「正しい日本語?」「情緒的美文?」「季語が使用できる?」
という「てにをは」がメインに考えてしまいます。
が、そういう意味ではなく。
<他人に分かるように書く・話す>という事が本質です。
衒学的に難しく専門語を語れって言うのではなく、
むしろそういう難しい概念などを咀嚼して誰もが分かる言語にするのが「アカデミック・ライティング」が1番の狙いです。
それを中等教育でやらない事のデメリットは非常に大きい。

しかもそれを助長しているのが「SNS」です。
引用・例示・具体と抽象を盛り込んだ<文章>ではなく、「単語」だけ。
「さいこおおお」
「やばい。」
「みなきゃ損」
これらがさらなる言語力を弱くしていくのです。
一回まともにアカデミックライティングを受けているなら良いのですが、受けておらずにこの単語力になると怖いものです。
ほんとに「やばい」しか言えなくなるのではないでしょうかね。

一体何が<やばい>のか、
具体例と例示を使い、より多くの人に分かる表現をする。
それが大事なのです。

日本はそもそも近代にはいるまでヨーロッパ的な意味っで論理的に厳密な文章を書く習慣っていうのはなかったんですよね。

しかもこの島での一般的なコミュニケーションには<契約>という概念がない。
陸続きで他民族で多文化で多宗教であれば、
厳密であり、直截的な表現による<契約>が絶対に必要です。

日本が得意な空気や同調圧力や雰囲気なんてのがコミュニケーションで通用しません。
そもそも基盤となる思想が違うので。
当たり前も普通も常識も全部違うのですよ('ω')

なので日本人には論理的に正しく書く・話すという文化は育まれてこなかったと言えます。
例えば歴史で見ても、秘伝書・随筆は論理が基盤ではないです。
世阿弥の「風姿花伝」なんかも「花」や「幽玄」という情緒的比喩が使われています。
こりゃ、ヨーロッパとは比較にもなりません。
明治時代の幕開けは、この<言語力の壊滅的な弱さ>が課題の1つでした。
そもそも<なんとなく>とか<雰囲気>で話したり、書いたりされると<中央集権化>の世界では困るようになっていくからです。
文字読めん、名前すら書けんとかなると国家は人口やその場所を国家は把握すらできません。
徴兵による一般の軍隊もそうですよ。
「大砲45度に構え!!」って言われて
「たいちょー。45度ってなんすか??('ω')」
「は??」ってなり、全く話になりません。
戦争に勝つ負けるの前の問題です。

よって、言語力の強化は大日本帝国の課題でした。
まあ、今でも日本はロジックが苦手です。
まだまだ空気とか、「雰囲気で分かるよね」的なのが多い。
「敬語か否か」が最重要やったりしますよね。
聞いてる時の「礼節」とかね。
そうやってなかなか「言語力」と正面から向き合ってこなかったのです。

これはやはりかなり弊害です。

例えば精神科の相談でも「言語力が弱すぎる」事があります。
「イライラするんですよ」
「どういう時ですか?」
「いつもずっと」
「例えば具体例はありますか?」
「う~ん。人間関係的な??」
というようにね。
自分にとってどのような因子がストレスを喚起させているのか?
を詳細に知る事で、はじめて具体的な解決策が見えるのですよ。


「なんとなくストレス」では、「なんとなく解決しない」でしょう。('ω')

言語の力を侮ってはいけません。
みなさんも良ければ「論文」は読んでみてください。
まずは読まないとはじまりません。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?