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新しい心


1歳9ヵ月の息子がいる。


身に覚えがあるだろうと言われればその通りなのだけれど、彼はいつの間にか僕らのところにやって来て、色んなものをぶち壊したり、見たこともない新しいものを作ってしまったりする存在だ。

でも、それはあまりに一瞬で、大概、次の瞬間には違った事件が起こっているもので、できればその瞬間や、その時の自分の心の様子を書き留めておいてもいいかなと思うようになった。


***


現状、父親としての僕はどうかと言うと、自分で言うのもなんだけどまあまあよくやっている方だと思う(こんなことは妻に言ってはいけない)。家事は全般的にこなせるし、彼の世話も、卒乳してからは僕ができないことは基本、何もない。

ぐずり対応や寝かしつけだって問題ない。急な発熱にも慌てないし、子供の発達の知識も簡単には持っていて、適切な声を掛けてあげて、彼の成長を促すような接し方もしているつもりだ。

何も問題がない。なので子育てに関して、自分の心中はすこぶる平和で、静かな湖面のように穏やかなのだった。


***


ある天気のすぐれない週末に、家族3人で商業施設に行った。

昼ごはんを食べて、外で遊べない彼を連れて、有料の屋内のプレイスペースに向かった。そこは人気の遊び場で、小さな子供向けの好奇心をくすぐるおもちゃや遊具、少し大きな子供がはしゃぎ回れる乗り物やアトラクションなど、種類が豊富に揃っている。

その中で、彼はお気に入りの電車を選び、遊び場の一角をぐるっと一周する線路に勇んで向かった。くねくねと曲がった線路の上を電車を走らせて、30cmくらいの距離を行ったり来たりさせて楽しそうだった。僕たちはそれを微笑ましく見ていた。

最初は空いていたけど、徐々に他の子ども達も集まってきて、それぞれの場所でそれぞれの電車を走らせている。だけど少し大きな子どもは、せっかく大きな線路があるのに、同じ場所を走らせるのでは飽き足らず、線路一周を全てを走らせる、いわゆる通常の電車の走り方をさせるようになっていた。


ふと、息子に目をやると、彼は泣いていた。


息子の背後からあおり運転気味で迫って来たその車(線路内なのに車だった!)のプレッシャーによって、彼は自分の操縦する電車が脱線したことにひどく悲しんでいたのだ。

彼の泣き方の特徴として、最初の10秒は無音で顔だけで泣くことから最初は気づかなかったのだけど、あまり今までに見たことのない種類の「悲しみ」様に見えた。


息子に近づいていく。


「子ども達が遊んでいる場ではよくあること。日常茶飯事だわ。」


(僕の)足が震えていた。


「おっ、後ろから線路なのに車が来たね。そういうこともあるよね。ちょっと譲ってあげようかね。」


(僕の)動悸がおさまらず、足元が少しふらついている。



「おい、てめぇ、何泣かしてくれてんだ。」


「息子、悲しんでる、可哀想すぎる。」


「親はどこだ?親は?どんなしつけしとるんじゃ?」


「いや、あの子はむしろ通常の電車の走り方をしただけだから。」


「線路を車が走るんじゃねえよ。」


「これは、むしろ成長するチャンスなのかもしれないぞ。」



みたいな色んな気持ちがぐるぐるに渦巻いて、それは胸から出発して身体中をめぐって足元まで辿り着き、僕をふらつかせていた。

そのとき、僕の中の湖面はもはや湖面ではなく、モーゼによって分かたれた海が、その後その反動で荒れ狂ったかのように、、いや、簡単に言えばすごく動揺していた。

そんなとんだ心境を息子にも、他の子どもにも、妻にも悟られることがないように、なんとか無事に息子を回収し、腰を落ち着けたのだった。


あれは一体何だったのだろうか?


余裕で、穏やかな、父親であったはずの自分の中に起こった動揺。


現時点で思うのは、あれが親の心というものなのかもしれないなということ。


とても複雑で、不思議な、新しい心。


そう、まだまだ何も、分かってなんかいないのだ。


どうしようもなく自分自身の一部で、それでいて自分自身ではなくどうしようもない存在。

そして、そうやってお互いとして生きていく関係。


これからなんだな。

きっとこれからもそんな風に、僕たちの中の色んなものをぶち壊したり、新しく作っていくんだな。君は。


楽しみ、楽しみ。



読んでくださって、ありがとうございました。








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