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いけず石に関する分析と解決策

<京都人、無言の抵抗?「いけず石」…当事者側の言い分を聞いた>という記事を読んだ。


個人的には、黄色のガードレールのような設置物(図の①)は良いと思う。
万が一、車が歩道側に突入した際に、衝撃を和らげる効果があるし、初見のドライバーでも容易に、設置物の存在に気づけるからだ。

いけず石にしても、初見で容易に気づけるように設置されているのならば特に問題はないと思う。
目立つような色で塗られていたり、どの角度からでも見やすい位置に置かれているのならば、公道を運転する者にとってそこまで迷惑にはならない。

だが、図の③のように、公道の領域に及んでいる「いけず石」はそもそも法令違反である。図の③に関しては、せめて②のように公道に、はみ出ないようにすべきである。図の③のような石を設置した者はドライバーへの配慮が足りなすぎる。



記事を読んで不思議に思ったことがある。

でも一理あります。そもそも、なぜ「石を置く」というちょっと分かりにくい形で、 張り紙などはされないんでしょうか。

京都人はそれができないんですね。家に張り紙や看板を掲げようものなら世間体が悪いと親に泣かれる。壁や塀が傷ついたことを騒ぎ立てて警察を呼ぼうもんなら、次の日からその家は「◯◯さん」ではなく、「昨日、塀に車ぶつけられて大騒ぎしはった家」と近所から呼ばれるようになってしまいますから。

壁や塀が車で傷つくことが京都内で問題になっているのならば、或る家で張り紙や看板が掲げられているのを見たときに「あの家も被害を受けたのだな」と感じるのが自然なはずなのだが、京都人はそうではないらしい。



もしかしたら「いけず石」は、「京都人がいけず根性で置く石」の省略形ではなく、「近所の人にいけず口を叩かれるのを避けるための石」なのかもしれないですね。人目を気にしながら、狭い街で、親切石(いけず石)のようなテクをいくつも使い分けながら、日々を淡々と暮らしていますよ。それを窮屈と思う方は京都嫌いになるし、ライフハックととらえる人は京都好きになるのではないでしょうか。

「人目を気にしながら、狭い街で、親切石(いけず石)などの婉曲的なテクをいくつも使い分けながら、日々を淡々と暮らしていく人生」って果たして幸せなのだろうかという疑問が湧く。
京都以外の地域出身のドライバーの中には、普段から近隣住民や道路沿いの歩行者への配慮を怠らないような運転をしているにも拘らず、初見では存在に気づきにくい「いけず石」のせいで、愛車を傷つけられた方も一定数いることだろう。
そのような被害者のことを考えたときに、親切石(いけず石)などのような手法をライフハックと呼ぶのは人としてどうなのだろうか・・・。


なお、いけず石問題の根本的な解決策としては、「公道の幅を大きくすること」が挙げられるが、京都の伝統的な街並みが移築されることに賛同する現地住民は数としては多くないだろう。

自宅の壁や塀を悪質なドライバーから守りたいという現地住民の心理は判るのだが、初めてその道を通る運転者のことも少しは考えた方が宜しいようにも思う。


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