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四聖諦について法を観つづける 中部#10 念処経 読了 その11 (法随観 四聖諦)

中部#10 念処経 読了記事のつづき(その11)です。


法随観 目次

  • 五蓋ごがい (pañca nīvaraṇāni)

  • 五取蘊ごしゅうん (pañc-upādānakkhandhā)

  • 六処 (内処, 外処) (cha ajjhattika-bāhirāni āyatanāni)

  • 七覚支 (satta bojjhaṅgā)

  • 四聖諦 (cattāri ariyasaccāni)

法随観 四聖諦

(法随観を修習する)比丘は、次のように、四の聖なる真理(四聖諦)である法において法を観つづけて住む、と説かれています。

〈これが苦である〉と如実に知ります。
〈これが苦の生起である〉と如実に知ります。
〈これが苦の滅尽である〉と如実に知ります。
〈これが苦の滅尽にいたる行道である〉と如実に知ります。

パーリ仏典 中部 根本五十経篇I 片山一良
第10  念処経
p.185

Idha, bhikkhave, bhikkhu ‘idaṃ dukkha’nti yathābhūtaṃ pajānāti,
‘ayaṃ dukkhasamudayo’ti yathābhūtaṃ pajānāti,
‘ayaṃ dukkhanirodho’ti yathābhūtaṃ pajānāti,
‘ayaṃ dukkhanirodhagāminī paṭipadā’ti yathābhūtaṃ pajānāti.

MN I 62

パーリ文: tipitaka.org

  • Idha, bhikkhave ここに, 比丘たちよ

  • bhikkhu: m. 比丘, 乞者, 乞食者

  • ‘…’ti yathābhūtaṃ pajānāti …と如実に知ります

    • iti, ti: ind. 〜と, かく, とて

    • yathā-bhūtaṃ: 如実に

    • pajānāti: 知る, 了知する

  • idaṃ: prono. [ayaṃ の n.] これ

  • dukkha: a. n. 苦, 苦痛, 苦悩

  • ayaṃ: prono. これ, この

  • dukkha-samudaya: 苦集

    • samudaya: m. 集, 集起, 生起, 起因, 原因

  • dukkha-nirodha: 苦滅

    • nirodha: m. 滅, 滅尽

  • dukkha-nirodha-gāminī-paṭipadā: 苦の滅に至る道

    • -gāmin: a. m. 行く, 行かせる, 導く者

      • -gāminī f.

    • paṭipadā: f. 道, 行道, 道跡, 行

パーリ語釈: 増補改訂 パーリ語辞典 水野弘元 (春秋社)

四聖諦ししょうたい四諦したい

四聖諦または四諦 (cattāri ariyasaccāni) とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦からなる四つの真理のことで、お釈迦様が、鹿野園で最初の説法(初転法輪)において、五比丘に対して説いたとされる仏教の根本教説です。

  • 苦諦くたい

    • *迷いの生存は苦であるという真理

    • 〈「これが dukkha 苦である」と、 yathābhūtaṃ 如実にありのままに pajānāti 知ることです。〉

  • 集諦じったい

    • 欲望の尽きないことが苦を生起させているという真理

    • 〈「これは dukkhasamudayo 苦の生じる方法である」と、如実にありのままに知ることです。〉

  • 滅諦めったい

    • 欲望のなくなった状態が苦滅の理想の境地であるという真理

    • 〈「これが dukkhanirodho 苦の滅である、こういうふうに苦しみが消えるのだ」と如実にありのままに知ることです。〉

  • 道諦どうたい

    • 苦滅にいたるためには八つの正しい修行方法(八正道はっしょうどう)によらなければならないという真理

    • 〈「これが dukkhanirodhagāminī 苦の滅に至る paṭipadā 道である」と如実にありのままに知ることです。〉

(解説は「岩波 仏教辞典 (初版)」「四諦」の項から、〈 〉は「大念処経 ヴィパッサナー瞑想の全貌を解き明かす最重要経典を読む」「法の随観」からの引用です。)

*岩波 仏教辞典 では「迷い」が別途立項されています。対応するサンスクリット・パーリ語は記載されていませんでした。

迷い まよい
ものごとの真実が分からずに, 誤った考えに|執着
《しゅうじゃく》すること. 悟りに対する語. いつわりのすがたにとらわれて, それこそが真実であると思いこむことを, 絶えずくり返している状態. 心が迷い動揺しているために, 自分の望んでいることとは別の考えや言動をしている状態. (迷妄めいもう)(迷惑)ともいう. 迷いは心の状態によるから, 欲や煩悩ぼんのうと同義的に使われる場合が多い.

岩波 仏教辞典
p. 761
「迷い」

如実に知る

スマナサーラ長老によると、人間(生命)には、ものごとを「如実に知る」能力は本来備わっておらず、気づきの実践で訓練する必要があるとのことです。

人間には如実にものごとを観ること、認識することはできないのです。その能力は生命には備わっていないのです。…
私たちに理解できるように解説するならば、ありのままに知るとは、主観を一切なしにものごとを客観的に見ることです。ありのままに見ます、といっても如実に見ることはできないのです。その能力はないのです。ですから如実に見る訓練が必要です。…
大念処経の気づきの実践は、如実に見るための訓練なのです。

大念処経 ヴィパッサナー瞑想の全貌を解き明かす最重要経典を読む
アルボムッレ・スマナサーラ
法の随観 (一部省略)

私がパーリ語で読んだ  tipitaka.org の版では、四聖諦の各諦が詳説されており長部経典の大念処経に相当する内容なのですが、各諦の詳説を含めると長くなってしまうので、ここでは渇愛いたします。

その11 まとめ

四聖諦において法随観を修習する時は、これが苦である、これが苦の生起である、これが苦の滅尽である、これが苦の滅尽にいたる行道である、と如実に知る、と四の聖なる真理(四聖諦)である法において法を観つづけて住む。

法随観を修習して、内外のもろもろの法において法を観つづけて、もろもろの法において生起・滅尽の法を観つづける比丘には、〈法のみがある〉との念が現前し、かれは依存することなく住み、世のいかなるものにも執着することがない。

参考訳: パーリ仏典 中部 根本五十経篇I 片山一良 (大蔵出版)

つづく

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