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四念処は涅槃を現に見る一道である 中部#10 念処経 読了 その1 (身随観 出息・入息)
2023/06/05 に 中部#10 念処経 Mahāsatipaṭṭhānasuttaṃ を読了しました。
念処経は、仏教における修行方法が解説された重要な経典の一つです。
「涅槃を目の当たりに見るための一道」である四念処、つまり、身念処、受念処、心念処、法念処という四つの念処(satipaṭṭhāna)ついて、お釈迦様が解説されています。
(片山一良訳の底本では、四聖諦の箇所が略説ですが、私がパーリ文を読む時に利用している tipitaka.org の版では四聖諦が詳説です。おそらく、パーリ文で読んだ内容は、長部経典#22 大念処経とほぼ同じではないかと思います。)
四念処とは
比丘たちよ、この道は、もろもろの生けるものが清まり、愁いと悲しみを乗り越え、苦しみと憂いが消え、正理を得、涅槃を目の当たりに見るための一道です。すなわち、それは四念処です。
第10 念処経
p.164
対応するパーリ文は以下のとおりです。(一部省略)
Ekāyano ayaṃ, bhikkhave, maggo (省略)
nibbānassa sacchikiriyāya, yadidaṃ cattāro satipaṭṭhānā.
ekāyano m. nom. 一行道です、一道です
ekāyana: 一乗道, 一行道
eka: num. 一, 一つ, ある
ayana: n. 行路, 行程, 目的
bhikkhave pl. voc. 比丘たちよ
ayaṃ maggo m. nom. この道は
ayaṃ: prono. これ, この
magga: m. 道, 道路, 正道
nibbānassa n. gen. 涅槃の
nibbāna: n. 涅槃, 寂滅
sacchikiriyāya f. dat. 現証のための、目の当たりに見るための
sacchikiriyā: f. 作証, 現証, 能証
yadidaṃ: [雲井] 〜ところのこれ, 即ち, いわゆる
cattāro satipaṭṭhānā m. pl. nom. 四念処です
catu: a. num. 四
satipaṭṭhāna: 念処, 念住
パーリ語釈: 増補改訂 パーリ語辞典 水野弘元 (春秋社)
パーリ語釈 [雲井]: 新版 パーリ語佛教辞典 雲井昭善 (山喜房仏書林)
身随観とは
ここに比丘は身において身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。
(貪欲と憂い: abhijjhā-domanassa)
「比丘は身において身を観つづけ住みます。」の箇所にあたるパーリ文は以下の通りです。
bhikkhu kāye kāyānupassī viharati
bhikkhu nom. 比丘は
kāye loc. 身において、身について
kāya: m. 身, 身体, 集まり
kāyānupassī nom. 身を随観する、身を観察する
kāyānupassin: 身の随観
kāya-anupassin
anupassin: a. 随観する, 観察する
viharati: 住む, 居住する
パーリ語釈: 増補改訂 パーリ語辞典 水野弘元 (春秋社)
身随観 目次
身随観は修習方法によって以下の6部(pabbaṃ)に分けて解説されます。
出息・入息 (ānāpāna, アーナーパーナ)
出る息・入る息を観察する
威儀 (iriyāpatha)
行住坐臥を観察する
正知 (sampajāna)
正知をもってあらゆる行動を行う
厭逆観察 (paṭikūla-manasikāra)
身体を構成する三十二の部分を観察する
要素観察 (dhātu-manasikāra)
身体を構成する四大要素(地水火風)を観察する
九墓地 (nava-sivathikā)
墓地に捨てられた死体について九つの状態を観察する
身随観 出息・入息 (アーナーパーナ)
実践に適した場所へ行く
ここに比丘は、森に行くか、樹下に行くか、空家に行って、結跏し、身を真っ直ぐに保ち、全面に念を凝らして坐ります。
(空家: arañña, 全面に念を凝らして: parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā)
片山訳では「全面」と訳されていますが、スマナサーラ長老は「前面」と解しています。
正しく坐って身体をまっすぐにしてから、集中力(気づき)を前面に置く (parimukhaṃ satiṃ) のです。
アルボムッレ・スマナサーラ
I 身の随観
出息・入息の部
気づきを前面に持ってくる
parimukha: a. 面前の
acc. adv. parimukhaṃ 面前に, 前に
パーリ語釈: 増補改訂 パーリ語辞典 水野弘元 (春秋社)
念をそなえて出入息する
かれは、念をそなえて出息し、念をそなえて入息します。
(念をそなえて: sato (sata))
長く出息するときは〈私は長く出息する〉と知り、長く入息するときは〈私は長く入息する〉と知ります。
短く出息するときは〈私は短く出息する〉と知り、短く入息するときは〈私は短く入息する〉と知ります。
(知る: pajānāti)
全身を感知して出入息しようと学ぶ
〈私は全身を感知して出息しよう〉と学び、〈私は全身を感知して入息しよう〉と学びます。
(全身: sabbakāya, 学ぶ: sikkhati)
伝統的には、ここでは全身とは息全体と解釈されます。私がスリランカのお坊さんからアーナーパーナ瞑想を教わった時も、そのように習ったことを覚えています。
「全身」とは、初・中・後の息、つまり息の全てをいいます。各息の始まり、中間、終わりを感知し、明らかにしつつ、出息しよう、入息しよう、ということです。「身」は出息、入息をさしており、いわゆる身体のことではありません。
『大念処経』を読む
片山一良
p. 47-48
一方、スマナサーラ長老は以下の様に述べています。
この身体全体と言う場合、ブッダゴーサ(Buddhaghosa)長老の註釈では、「呼吸そのものが身体」と解釈します。すると、呼吸を全部観なさいという意味になりますが、何かちょっと納得いかない。一般的に「身体全体」ということでいいのではないか、とも思います。
I 身の随観
出息・入息の部
身体全体を感じる呼吸
ここでは、伝統的な解釈とスマナサーラ長老の解釈を引用しておくだけにします。
身行を静めつつ出入息しようと学ぶ
〈私は身行を静めつつ出息しよう〉と学び、〈私は身行を静めつつ入息しよう〉と学びます。
p. 165
(身行: kāyasaṅkhāra)
「身行」とは、身の行、すなわち息のことであります。(中略)ここでは、息という行、身に条件づけられたもの、「息」と解されます。「息を静めつつ」とは故意に息を静めようとすることではありません。出息・入息をそのとおりに念じ、そのとおりに知り、息が次第に微細になり、全く静まるまでこれを続けよう、と学び、努力することをいいます。
p. 48
この場合の saṅkhāra (行) は、「諸行無常」というときの saṅkhāra の意味とは違います。Saṅkhāra とは動きのことです。動かしているエネルギーにも saṅkhāra と言うのです。身体の動きと身体を動かしているエネルギーという両方をまとめて、kāyasaṅkhāra・身行と言うのです。
I 身の随観
出息・入息の部
身体を落ち着けて呼吸をはっきり理解する
身随観の結果
各身随観の修習方法の後にはその結果について解説されています。
以上のように、内の身において身を観つづけて住み、あるいは、外の身において身を観つづけて住み、あるいは、内と外の身において身を観つづけて住みます。また、身において生起の法を観つづけて住み、あるいは、身において滅尽の法を観つづけて住み、あるいは、身において生起と滅尽の法を観つづけて住みます。そこで、かれに〈身のみがある〉との念が現前しますが、それこそは智のため念のためになります。かれは、依存することなく住み、世のいかなるものにも執着することがありません。
第10 念処経
p.166-167
その1 まとめ
四念処は涅槃を目の当たりに見るための一道である。
身随観とは、身において身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住むことである。
出息・入息を修習する時は、適した場所に行き、念をそなえて出入息し、出入息を知り、全身を感知して出入息しようと学び、身行を静めつつ出入息しようと学ぶ。
[内の身/外の身/内と外の身]において身を観つづけて住み、身において[生起の法/滅尽の法/生起と滅尽の法]を観つづけて住む比丘に〈身のみがある〉との念が現前する。それは智と念のためになり、かれは依存することなく、世のいかなるものにも執着することがない。
つづく
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