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業の引き受け

先日、偶然例の十年来の友人に会った。また私のことで彼氏と喧嘩したらしい。話を聞いたら私はただの当て付けであり、まったくもってトバッチリなのであった。私が「不倫してるメンヘラ」なのは別に間違いではないが、何で会ったこともない友人の彼氏にそんな悪口を言われているのだろうか。解せぬ。その悪口に私が傷つくような本質はない。また、彼氏の前ではすっかり猫を被っているのか何なのか、奴が私の悪友なのに私が奴の悪友として見做されているのもまったく解せぬ。

およそ自分の関係のないところで自分の話題がなされる、ということが誰しもままあると思うのだが、このことは一体何なのだろうと思う。そして、こんなに近しいところにいる人にこんなに勘違いされるんであれば、遠くにいる人にはもっと誤解されるんだろうということは容易に想像でき、私を厳しい気持ちにさせる。有名になるということはおそらく、こういったことが垂直的にも平行的にも、もっともっと広範囲に頻発することであるから、ちょっとも有名になる予定はないので杞憂だが、それを理由に有名になりたくないくらい嫌なものである。今直接の友人に私のいないところで私の話題をされることすら嫌なのだから。しかし、こういうことはある程度仕方のないものとして受け入れるしかないのだとも思う。なぜなら業だから。業というか副作用みたいなものかもしれない。街で声をかけられるのが嫌で芸能活動をやめてしまうのはもったいない。ストーカーが理由で表現活動をやめてしまうのはもったいない(ストーカーは然るべき裁きにあってもらう必要があるが)。ナンパされるのが嫌だからという理由でスカートを履くのをやめるのは違う。これらのことは誰しもが耐えられるものではないし、誰もが耐えるべきことでもないが、「ある程度」仕方ないのだ。つまり、程度の問題である。何で嫌な目に遭っているのはこっちなのにこっちが気にしない努力や何とも思わない努力をしなきゃいけないんだとは常々思うが、0でも1でもない機微やニュアンスを拾っては捨ててを繰り返していく、そういう必要がある。勇者はモブにいちいち苛立っていても仕方ない。そんなザコを全員相手にしてやっていたらいつまで経ってもラスボスまで辿り着かない。「未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ」(J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳)今年は業を引き受けようと思ったという話。天才はいつまでも未成熟ではいられないのだ。やたら説教臭いが(実際説教の場面なのである。しかもこの教示を受けている主人公はろくに聞いていない)、以下も引用しておく。

「なかんずく君は発見することになるだろう。人間のなす様々な行為を目にして混乱し、怯え、あるいは吐き気さえもよおしたのは、君ひとりではないんだのいうことをね。そういう思いを味わったのは、なにも君だけじゃないんだ。その事実を知ることによって、君は興奮し、心をかきたてられるはずだ。とても、とても多くの人々が、今君が経験しているのとちょうど同じように、道義的にまたは精神的に思い悩んできた。ありがたいことに、彼らのうちのあるものはそういう悩みについての記録をしっかりと残しているんだ。君はそういう人々から学ぶことができるーーもし君が望めばということだけどね。同じように、もし君に提供すべき何かができたなら、誰かがいつの日にか君からその何かを学ぶことになるだろう。それは美しく互恵的な仕組みなんだよ。それは教育みたいなことにとどまらない。それは歴史であり、詩なんだ」

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