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上澄み

旅行、とりわけ東京在住者の国内旅行は、田舎の上澄みを掠め取る消費活動である。地方在住者が彼らの土地に行くだけで喜んでくれるからといって、旅行というものの後ろめたさから逃れられるとは思わない。自分は住みたくない場所、住めない場所に住んでいる人たちがいるからこそ、気まぐれにふらっと訪れ、その土地の美味いものを食べ散らかし、自然は癒されるなどと戯言を吐かして自分はさっさと東京に帰る、などということができるということ。後ろめたくないわけがない。少なくとも上澄みだけを舐めさせてもらっているという意識は持ち続けていたいと思う。

「あの町を歩く才能がなかったから私新宿が好き汚れてもいいの」と歌ったのは大森靖子だが、この歌詞はやはり素晴らしい。田舎差別がどうのって話の前にマジで田舎に住む才能がないんである。何人かで経験があるが、こういう話は田舎に住めるタイプの人間に話しても全然通じなくて大体険悪になる。私は町田にすら住めなかった。公立の小中学校で友達がいなかった人間が田舎でご近所付き合いができると思うか? 田舎の温かさには包容できない個性というのがある。都会は冷たい。その冷たさに救われている人間がいる。私はマジで放っておいてほしいのだ。都会の他人に対する興味のなさは本当に居心地がいい。

そんな私が田舎に旅行に行く、どんな目的や理由があれどまずその時点で倒錯がある。善いとか悪いとかではなく、倒錯がある。ときに後ろめたさもある。もはやそれを楽しんでいる。

旅行者をはじめとした部外者にしか気づきにくいタイプのその土地の良いところというようなものはたくさんあるとは思うけど、つまり地元の人にとっては当たり前すぎて気づかないが部外者にとっては有り難みのあるものだというような、そういうことはたしかにあるけども、そういうことがあるということに驕りすぎてはならないと思う。広告の人間はそういう場面で驕りがちなんじゃないか。研究者などにそういう露骨な奢りを見ることは少ない。その土地の酸いも甘いもを知っているのは地元の人だ。一番その土地のことを知っているのはあくまで地元の人なのだ。そこにずっと住んでいる人なのだ。そのリスペクトを忘れてはならない。いくら部外者にしか分からない価値がそこにあるとしても。基本、広告というのは旅行者のような仕事だからこそ、足を運んで声を聞く、それを大事にするのはもちろんのこと、それをしたとてそのたった一回二回で分かることなんて高が知れている、所詮は上澄みなのだということも肝に銘じておくべきではないか。上澄みだから善いとか悪いとかそういう話ではなく、上澄みである。澄んでいて当然なのである。

広告を生業にして5年、「消費」という活動に敏感になったと思う。自分が何を「消費」しているのか、はたまた自分は何に「消費」されているのか。この「消費」に対して無意識な人が多すぎる。広告を馬鹿にしている人、毛嫌いしている人が、非意識的に消費し、されているのは滑稽みすらある。

消費活動として私がずっとモヤモヤしているのは「ディープ」な場所だ。「ディープ」な場所に出向いて、そこにいる人たちの日常を非日常として消費する、そういう消費活動に対して無邪気すぎる人がたまにいるが、無邪気すぎるのはどうなんだ。他人の日常を消費することに後ろめたさは感じないのか。他人の領域を侵すことに申し訳なさのようなものはないのか。ゲイバーなどがよい例だろうか。一度は行ってみたいし、普通に女もいるノンケもいるゲイバーも多分あるんだろうけど、基本的には部外者が無邪気に行くのはちょっと申し訳ないなという場所だ。そういう話。こちらにそんなつもりはなくとも、私は他人の日常を非日常として消費することになるわけだから、それについて考えるのは倫理だ。私がしているのはずっと倫理の話なのだが、大抵型にハマった差別ないし差別意識、道徳の話に終始してしまう。善いとか悪いとか以前に、それってどういうことなんだろう、後ろめたさを感じるのは何でなんだろうという話をしたいのだが、まあ無理っぽい。とりあえず今の私のレベルじゃ無理みたいだ。もうちょっとレベル上げしてから再チャレンジしてみようと思う。

欲望はすべてもともと他人の欲望だ。自分の内から湧き出てきた欲望なんてなくて、大抵は誰かから掠め取ったものである。本当はしたいことなんてなくてその空っぽを埋めるために必死で消費しているように見える人がいる。みんなもう少し「消費」そして「欲望」に敏感になった方がよいのではないか。「消費」ってやっぱりそこまで無意識にやっていい活動ではないように私は思うがどうだろう。

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