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仕事だから、良心は死んだ、考えない、一緒になって、嗤った

端に感じやすくなってるってだけだとは思う。ただ、自分が何かされたってわけでなくても傷つくことは無限にあるし、そんなのニュースを軽く見ているだけでもそうだし、もっと身近な話で言えば、人をむごいやり方で傷つけているのに、侮辱しているのに、ああこの人は少なくとも今この件について何も感じてないんだ、ということにも傷つくし、

やたらめったらに傷ついてしまう、そういう時期もある。しかしこれは私のコンディションに拘らず人道的にありえないと思ったことが最近あったので書き残しておく。

具体的には書けないので抽象的に。
追い出した人間を呼び出して嗤うという程度の低い小学生のようないじめについて、それを笑って見ていられる、見過ごしてしまえる傍観者たちについて。てめえらみたいなのが非人道的な人間を囲ってからそいつはつけ上がるんだよ。違うか?

私はどこにでも順応できるような適応性の高い人間が思考も感受性も共同体に乗っ取られていくのが恐ろしいし、そういった虫も殺さぬような善良な市民が平気で暴力を振るうようになっていくのが恐ろしい。

「仕事だから。十九世紀の夜明けからこのかた、仕事だから仕方ないという言葉が虫も殺さぬ凡庸な人間たちから、どれだけの残虐さを引き出すことに成功したか、きみは知っているのかね。仕事だから、ナチはユダヤ人をガス室に送れた。仕事だから、東ドイツの国境警備隊は西への脱走者を射殺することができた。仕事だから、仕事だから。兵士や親衛隊である必要はない。すべての仕事は、人間の良心を麻痺させるために存在するんだよ。資本主義を生み出したのは、仕事に打ちこみ貯蓄を良しとするプロテスタンティズムだ。つまり、仕事とは宗教なのだよ。信仰の度合において、そこに明確な違いはない。そのことにみんな薄々気がついてはいるようだがね。誰もそれを直視したくはない」
伊藤計劃『虐殺器官』

台所では
はらわたを出された魚が跳ねるのを笑ったという
食卓では
まだ動くその肉を笑ったという
ナチの収容所では
足を切った人間が
切られた人間を笑ったという
切った足に竹を突き刺し歩かせて
ころんだら笑ったという
ある療養所では
義眼を入れ
かつらをかむり
義足をはいて
やっと人の形にもどる
欠落の悲哀を笑ったという
笑われた悲哀を
世間はまた笑ったという
笑うことに
苦痛も感ぜず
嘔吐ももよおさず
焚火をしながら
ごく
自然に笑ったという
塔和子『嘔吐』

せめて自分の発言が元はよく一緒にいる自分の周りの人間二、三人の発言だったことくらい自覚してほしい。それはおまえの思考じゃないし、おまえの言葉じゃない。私は自分の言葉を喋らない人間を信用しない。

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