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誰かを好きになる、ということ

以前、愛と恋について自分がよく分かっていないという趣旨のnoteを書きました。

今回はそれの続きみたいな、違うような、そもそも自分の内面の不可解さについて、答えをもたないので書きながら整理していこうと思う次第です。
もし良ければお付き合いください。
そしてもし、私の独りよがりな独り言に思うことがございましたら、言葉をいただけたらなと思うのです。

人と恋をすること、この人と生きていきたいと思うほど人を愛すること。
その感情を、26歳になった私は、映画や小説から得た情報でしか知りません。

家族愛や友愛はなんとなく理解しています。
家族や友人とこういうところが合わないなと思っても、結局は一緒に居るし、ご飯を食べたり出掛けたりすることが嫌ではない。困っていたらできる範囲で助けたいなと思うし、体調が悪そうなら心配する。嬉しそうなら、よかったなあと思う。怒ってたら、どうしたのかなと考える。
そもそもからして、私は友達が多い人ではありません。友達が私を好きでいてくれる事が有難いなと感じながら、時折誰とも会いたくない1人になりたいと思ってしまう。
だから余計に、なんとなく申し訳なくて自分からあまり誘うことを避けてしまいます。
とか言って、「○○食べたい」「○○行きたい」というのをSNSとかで目にすれば、誘ったりしちゃうんですけども。

基本的な私の性格は、友達でも誰でもある程度その人の好きなようにしてもらって、私がどうしてもダメだと思うことだけはさり気なく避けるという感じ。いやじゃなければ大抵の事は受け入れるし、それで相手がいいなら良いよ好きにして、という。
ただしこれは優しさではなく、他力本願な人任せの典型的な形だなあと常々思います。だから去るものは追わないし、来るものは拒まない。好きにしてもらったらいいよ、と思う。


だから、周りのみんながしている恋と愛がどんなものか、未知の領域です。
ありがたいことに、好意を抱いてくれている様な方が居たりすると、その気持ちが垣間見えるたびに申し訳ない気持ちになる。
私の人への好きの感情は、今のところ2つしかないのです。
家族に向ける身内への愛と、友達へ向ける友愛。
だからこそ、向けられた好意に戸惑ってしまう。
好かれることは嬉しい、けれどこの戸惑いは、同じ感情を抱けていない自分が理解出来ているからこそ、いたたまれない。

私にとって、美味しいご飯を食べに行って、話して笑って、という行為は、行く相手が男の人か女の人かという違いだけで、相手に向ける感情は同じなのです。友達と一緒にご飯に行けて楽しいな、っていうもの。
気に入って頂けたことは光栄で、でも、上手く言えないけれどいたたまれないのです。

男の人の性対象に自分が入っていることに、まずびっくりしてしまう。
知り合った人にご飯に行きましょう、とか、年上の人にご飯奢るよとか、誘って頂いて、でもそんなの社交辞令の様に思うわけです。美味しいもの食べられるのうれしいな、くらい。
そのうちの何割かでも性的な目的があるのならぜひどこかに書いてほしい。気付かないです。知らなかったというよりも、自分がそう思われてる認識がない。私は私のことを女だと思っているけれど、誰かの性対象になる女だと考えたことがないのだろうなあ。
これは多分私の自己肯定感の問題でもあるんでしょうし、20代後半の女が何をと言われてしまえばそれまでなんですけれど、でも「自分のことを男の人が性的な目で見ている」なんて、正直夢にも思ってなかったわけです。
ばかねえ。十中八九、私の友達は言うでしょう。

良くしてくれる人だったから、ついて行って、ご飯をご馳走になりました。
車で迎えに来ていただいたので、その帰り。駐車場で引き寄せられてキスをして。テレビで見た事あるなあ、とぼんやり考えました。
どうしてこの人は私にキスするんだろう。したいのかな、なら別に好きにすればいいよ、って思いながら、ああ私はこの人と友達にはなれないんだなと感じたことを覚えています。
その日はそれだけ、そしてその人とは私が仕事の忙しさを理由に連絡を経ったのでそれ以上何もありません。
もしかしたら、そのまま連絡を取り合っていたら恋を知れたのかもしれません。尊敬出来るひとでした。一緒にご飯に行きたいと思うくらいには、良い感情を持っていました。
今となっては、の話ではありますが。


恋愛ってなんでしょう?ときめきってなんでしょう?誰かを好きになって、キスやセックスをして、愛していくって、どんな感じですか?

そんなことをつらつら考えながら、友人の結婚生活についてを知り、幸せそうで良かったなあと微笑ましく思う日々を送っています。
いつか分かるかな。私もこの人がいいって思える人に会えるかな。
まるで子供みたいに、そんな期待をしています。

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