【第一回】人工知能は、人類最初の赤ん坊だと思う話。 -"他者"の歴史-
「AIの扱い、悪すぎない?(特に海外)」。
そんなことをふと思ったのは、一人のITエンジニアとして昨今のAI関連ニュースを追っていた時のことでした。
「AIが人間の仕事を奪う」「AIの軍事利用」辺りの論調は以前からあったもので、それらに対する危惧自体は正当なものです。
原理的に処理過程がブラックボックスなディープラーニングや現在の未完成なAIの持つリスクについて想定するのも正しいスタンスでしょう。
でも、なんというか。
そういった冷静な理屈のレベルを超えて、なんだか「怖がりすぎて」はいないか? という違和感がありました。
例えば、直近だけでも以下のようなニュースがあります。
核戦争というフレーズは明らかに飛躍していますし、記事を読むとそもそも「核戦争ぐらいヤバいことが起きるんじゃね?」というえらくアバウトな質問でアンケートをしただけのようです。
また、何かと話題のイーロン氏を含む名だたる著名人たちによる「最先端AI研究の半年間の停止」の提言は大きな話題性がありますが、そもそも今のアメリカと中国のAI研究の技術力のギャップはおよそ2ヶ月という説もあります。世界中で研究が進んでいる今、「半年間の停止」は現実的とは言えないアイデアでしょう。
一つ目のニュースは単にキャッチーなタイトルで閲覧数を稼ごうとしただけでしょうが、何にせよ恐怖心がやけに先行しているようです。
その一方で「AIは便利」論もどこか「神か悪魔か」的というか。言い表せない過剰さがあるような気がします。
しかもこの違和感、『ズレ』の感覚はどこかで見た覚えがあるような気がしていて。ある日、ニュースのヘッドラインを見て気付きました。
ChatGPTは「異星人の知性」のようなもの。
このフレーズを見て、とても腑に落ちる感覚がありました。
そう、NovelAIであれChatGPTであれ、彼ら生成AIはどこか宇宙人的な違和感を持っています。それは「人間には不可能なことを簡単に成し遂げ、人間は絶対に間違えないことを何度も間違える」から。
例えば人間の絵を描かせれば手足を(意図せず)何本も生やしてしまったり、会話の途中で同じフレーズを何度も繰り返したり。
この宇宙人感。
つまりは人間とは異なる他者であることこそが、人工知能という存在の人類社会にとっての本質なのではないでしょうか?
"他者"とのファーストコンタクト
不思議と「AI」と言われるよりも「宇宙人」と言われた方が、意思疎通をしてお互いを理解し合えそうな気がします。
それは自分達と同じく動物から進化し、文明を発展させ、コミュニケーションを取って生きている、という共通項がありそうに思えるからでしょう。
結局、『宇宙戦争』で描かれたタコ型エイリアンは火星在住ではなく、『スター・ウォーズ』のような銀河同盟は今のところ姿を現していません。
(ちなみに私は「宇宙人のいない宇宙」という仮説もそれはそれでロマンがあると思います。地球が最初、になるわけですし)
代わりに私たちが接することになる最初の"他者"は、自分達の手で作り出した存在になりそうです。
しかし"他者"とのファーストコンタクトにおける不安と誤解と混乱。
これ自体は、実は歴史上で何度か、あるいは何度も繰り返されてきたものではないでしょうか?
それらは、どれも歴史上のセンシティブで繊細な問題として扱われます。
何故なら歴史上の"他者"とは、人間同士が無理解を乗り越えて互いを理解し合っていく過程の出来事だからです。
19世紀の黒人奴隷は「奴隷の逃亡は遺伝性の精神病であり、鞭打ちによって治療できる」とヨーロッパで考えられていました。
1969年のストーンウォールの反乱まで、世界各地で折につけLGBTQの人々は迫害され、ナチスドイツは「ユダヤ人、少数遊牧民、同性愛者」などの"他者"を容赦なくガス室に送りました。
そして19世紀末に児童労働が問題と見なされるまでの数千年間、「大人と子どもは違う存在」という概念は存在しませんでした。ルソーが18世紀に提唱してようやく、「子どもという"他者"」を私たちは理解し始めます。
人工知能は、人類最初の赤ん坊という考えは、まさにこの三番目の事例から思い浮かんだものでした。
もちろん、生物学的にも情報工学的にも、AIの仕組みはいかなる動物の赤子とも同じではありません。しかしその一方で「知性は一種類ではない」のも事実です。
生物学を通じてAIの発展を理解しようという試みは各所で行われています。少なくとも、AIは今まさに成長過程にあり、学び・育つという過程を経ている点では生物の幼体と共通しています。
「人間とAIが同じ思考をする」必要は必ずしもなく、むしろ"他者"として理解することこそが重要な着地点なのでは?
AIの危険性や制御可能性ばかりを注視することは――つまり、赤ん坊に首輪をつけ、鎖で縛り、足枷を嵌めれば『理想的に育つ』というのは――これまで歴史上で何度も繰り返されてきた、"他者"に対する接し方の失敗そのものなのでは?
それが、私が感じている、そして誰かが考えるべきことなのではないかということです。
AIを、人工知能を研究し、注目することは世界中の誰もがやっています。
しかし本当に必要なのは、「AIという"他者"を受け入れる」側の人間社会に目を向けることなのかもしれません。
さて。第一回の今回は「人類が出逢うAIという"他者"」について、直感的な印象と連想される事例を紹介しました。
しかしそれでも「感傷的すぎる」「機械は道具」というリアクションも当然あることでしょう。少なくともビジネスの世界で、「ドラえもんと友達になりたいから」という理由だけで全員の方針が決まることはありません。
また、ITエンジニアとして「プログラミングコードは何処まで行ってもプログラム」という感覚も理解できます。
ですが逆に「道具として扱おうとすること」にはリスクはないのでしょうか? 感情面はともかく、合理的なロジックだけならAIが"他者"である、という点は考慮せずとも問題は生じないのでしょうか。
次回、第二回は -「AIは脅威」論が抱える危うさ- についてご紹介します。
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