口論

コミュニケーションにおいて「話し手の意図」と「聞き手の解釈」が一致しないことがある。これをディスコミュニケーションと呼ぼう。
ディスコミュニケーションが生じたとき、話し手と聞き手のどちらに責任があるのかという問題について普遍的な答えはない。

日常的な口論は全て「話し手の正義と聞き手の正義の戦争」だ。

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最近ではポリコレやらセクハラやらで、聞き手の解釈が尊重される場面が多いように思う。話し手の意図がどうであろうと、聞き手が傷ついたのであればその発言は不適切だという価値観が広まってきた。それは、たとえ聞き手の解釈がどれほど非現実的で妄想的であっても、その人の感情が優先されるべきだという考えに等しい。

このような考えのポイントは2つある。
第一に、コミュニケーションとは相手に自分の意図を正確に伝えるためのゲームであるということ。この前提に立てば、ディスコミュニケーションは聞き手の解釈に配慮しなかったことが原因で生じるので、話し手側のコミュニケーション能力に問題があると結論付けられる。

第二に、話し手の意図はしばしば歪曲されるということ。
話し手の意図が正確に伝わったにも関わらず、聞き手の解釈に対する想像力が欠けていたためにディスコミュニケーションが生じた場合、話し手は「そんなつもりではなかった」と自身の意図を歪曲することによって自らの正当性を保つことができる。つまり、話し手の意図を100%優先させるのであれば、いかなる不適切な発言も適切だと言い張ることができる。このような”反則”を防止するためには、ポイント1をコミュニケーションの前提とすることが必要だ。

最近、このような価値観に違和感を感じている。それは、このような考えを”乱用”することによって、「被害者を演じた攻撃」が可能になってきたからだ。先程とは逆に、聞き手の解釈を100%優先させれば、いかなる発言も不適切になりかねないのだ。

従来の問題が「話して側に都合のよい意図の歪曲」だったのに対して、現在の問題は「聞き手側に都合のよい解釈の歪曲」であるように思う。

いずれにせよ、最初にも言った通りこの手の問題は「話し手の正義と聞き手の正義の戦争」だ。もし良好な関係を築きたいのであれば、互いに両方の価値観(意図を優先する価値観と解釈を優先する価値観)を受け入れるべきだろう。また、口論において重要な論点はもはや「意図」と「解釈」の不一致を正すことではなく、互いの「意図」と「解釈」の傾向を正確に理解したうえで、今後はどのようにコミュニケーションの方法を改善していくべきかという問題だ。これは人類普遍の問いではなく二人の関係における問いなので、二人の感性をベースに話し合えば着地点を見つけることができる。

この考えに納得してくれるのであれば、僕達は次のルールを設けるべきだ。

聞き手のとき:話し手に悪意はないと信じろ
話し手のとき:聞き手の解釈を想像しろ

このルールを採用すれば、今後ディスコミュニケーションが生じたときには「あなたのその話し方には悪意があるように聞こえる」と指摘するだけでよくて、あなたは「傷ついた」とか「悲しい」などと、自分を”被害者”にする必要はない。なぜなら、相手には悪意がないのだから。そして、話し手はその指摘を真摯に受け止め、具体的な改善を誓うだろう。なぜなら、その発言には悪意がなかったのだから。

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