はらわたと包丁


 この世からのあぶれ者。煤けた忌み子。後天性の屑。望んだことだ。神に見放されるためだ。これが生きやすいと感じるのだから仕方ない。そう、仕方ないんだ。

5月28日
 見慣れた街の風景も、地に足の着いた谷底から見上げる心持ちだと、少しの色彩を感じさせる。鉄骨渡りをしていた頃の、上に居て堅牢な足元でありながら落下の恐怖に挟撃されていた頃の自分の虹彩には、すべてモノクロにしか見えなかった。この信念が、気弱な癖と自由な質の同居する、我道に居ておどおどした態度に対する皆の視線───自分の中に飼って根付いた世間からの監視を受けたときの免罪符になっている。
「ごめん。少し遅れた」
 ホテルの一室の前。日付が変わる3分前。
 今日は待たせ人がいた。恋人は作らないと決めたので、一部屋だけの関係で、この人には惚れたふりをしても心地が良かった。だから、この人の前では、少しだけ馬鹿になることと少しだけ幼くなることを自分に許していた。
「大丈夫。ここ、初めてだからちょっと見たかったし」
「どう?」
「ベッドは…寝にくそう。丁度いいかもね」
「逆にね。…じゃあ、先に浴びてくるよ」
「一緒でいいんじゃない?」
心の中で赤面した。何度目かわからない。いいんじゃない?と言われると弱い。尊厳の欠けるのと、乙女に似た気持ちとだ。だが、一緒に入ろうなんてこっちから言おうものなら氷水に顔を付けなければいけなくなる。紳士には、終ぞなれなかった。そう思うと、提案に乗るていを取らせてくれるのには、背中合わせの優しさを覚える。
「じゃ、行こう」
「うん」
「ねぇ」
「うん?」
頸だけで振り返ると、そのまま顔を抑えて唇を塞がれた。驚いた拍子に、体を彼女の方ににじり戻してしまう。甘ったるい風味のする口の中。眼を見れば心まで金縛りに遭うだろう。ゴルゴーンの娘は、その髪で鼻腔を噛み、その爪で脊髄を掻き、毒を流し込んでくる。その猛毒に胃袋を掴まれた。
「…っはぁ。もう、このままでもいいんじゃない?」
「このままが、いい」
酸だった。毒の正体は、酸だ。この舌の固まったのを溶かして口走らせる。然し、気の迷いだけはこいつの耳に入れてはならない。いや、いっそそうなった方が面白いかもしれない。否、こいつを飽きては勿体ない。でも、興が乗ったら、脳まで石化したら、言ってしまうかもしれない。

6月1日
 遠くの地方に行くと言って何年も連絡の無かった、高校時代の級友が久しぶりに東京に帰って来た。随分綺麗な田舎だったらしいので、新宿に連れ立ってやった。道すがらに近況を零し合うと、向こうは子供の頃となんにも変わらない様で、俺ばっかりがあらぬ方向に歩いていたようだった。
「お前がそんなんになるとは思ってなかったよ」
「俺が一番思ってなかっただろ」
腐れ縁の男には、誤魔化しも効かないので良い。影絵を作っても、肝心要と隠した手元がこいつに放映される。男色の気もあれば、こいつともよかったかもしれない。端正な顔と、線が細く清純そうな声。いちばん良いのは、粗雑軽薄な口調だ。たとい自分より上に居ても、果物のひとつ投げ合える親近感を持てる。畢竟、世間には嫌われる部類だ。
「オレも遊びてえよ」
「お前こそ、相手ならいくらでも居そうなのにな」
今は12時を少し過ぎたくらいだったはずだ。さっき腕時計を見た。こんな時間からする話でもない。普通の人はこんな話を昼間にしない。不埒だ。だから、俺にとってはこんな時間からする話だった。
「本当だよ。なんでお前の方なんだよ」
「俺の方が、適当にできるんだろうな」
卑下でもあるが、誇りでもあった。恋の相手にされない。これ程幸福なことは無い。臓物が絞られるまで相手を乞いしく想っても、真面目にさえならなければいい。不真面目は十八番だ。不良で居さえすれば、熱帯雨林で夢を見られる。一途な牢獄よりは、南国の波に乗る方が性に合うのだ。
「そういう話なら、オレは遊ばなくて正解かもな」
「だろうな」
「オレは適当にしたいから、な」
少し、嘘の文脈を読ませたかもしれない。全ての男が適当にされるんではない。俺が引っ込み思案で自信も無いので前に出られないだけなのだから、こいつはその限りではない。なんなら、適当にする側に回れるのではないかと思っている。が、それで俺の予定が空くのは癪なので言うまい。絶対に。

6月1日
 何と言ったか、とにかく外せない用事があると言って、アイツは夜飯を食ったらすぐ駅に向かってしまった。てっきり1泊や2泊していくと思っていたので、このまま家に帰るのも癪だ。家は渋谷なのだ。
「お兄さん、いま暇?」
丁度、ゴルゴーンの娘に連絡をつけようとしたところだった。声の方に目を遣ると、背の低い黒髪の、20前後くらいの少女が寄ってきていた。
「いま、時間ある?」
「ああ」
「じゃあ、どう?」
「どう、って…」
「ここで声を掛けたんだから」
辺りには、赤くでかでかとした看板があって、ビルがあった。なにか文字が書いてあるが、俺は目が悪くて、その形が判然としない。人の顔も、腕を伸ばして届くくらいまで近付かなければぼやける。その視界に這入る景色群は東京では珍しくもない景色だが、傾奇者の歴では中堅にもなる人間がその意味を判らないわけがない。
「高い所の方がいい?」
駄目だな。甲斐性無しの、精一杯の強がり。あまり値が張ると払えないので恥をかくが、「安いところで」とも言えない。少しだけの見栄が邪魔してくるのだ。そもそも値段の話なんかしなければいいのだ。然し、それもできなかった。何でもいいから聞き入れようとした。幻滅させてはいけなかった。
「どこでもいいの。暗いところがいい」
誰とも似たような奴で、俺は今までそういう人と遊んだことは無かった。

6月7日
 ここ数日で暑くなってきた。熱帯夜も続いて、どうにもそういう気になれない事が重なったので最近はすっかり遊んでいない。小間使いを探している所に行って雑用をする代わりに金を貰ったり、飯を食わせて貰ったりしているばかりだ。趣味といえば、偶に立ち寄る図書館が板に着くようになってきた。長い時は開館から閉館まで居て、とても買えない量の小説を読み漁ったり、花の図鑑を手に取ってみたりしている。そこで、本当に偶々知り合った図書館員がいる。本の場所を何回か訊いていると俺の好みを把握したらしく、あの作者の新刊が入ったとかこれもおすすめだとか、さっきは私の好きな本は…とか言ってきた。昼間や夕方は客もまばらに多いので会話もそこそこにして切り上げるのだが、ここは夜遅くまでやっていて、店じまいが近くなる頃には客は俺1人になるので、バーのようにいろいろこぼしている。
「ここは涼しいでしょ?」
「うん、涼しい。読むのに…」
「快適?」
「そう、快適。本を読むのは増えたのに言葉が出てこなくて」
「引き出しが詰まってるのよ」
「それなら、贅沢な悩みでいいんだけど…最近さ」
「どうしたの?」
「いや…まあ、そういう本もよくあるか……夜の、遊びをしてて」
「私…遊びどころか、真剣にもしたことない」
「その方がいい。きっと…それで、飽きてきてさ」
「熱が引いてきたの?」
「そう、なんだと思う。多分」
「いいじゃない。しばらくは休暇にしたら?本の趣味も良いんだし…」
「君と被るから謙遜もできないな」
「明日も来るでしょ?取り置いておく?」
 もう、仕舞いの時間を少し過ぎていた。
「じゃあ、これと、これを。今日読むには多かったみたいで…」
「たしかに」
「じゃあ、また明日も」

6月18日、図書館
「ねえ」
「うん?」
「私考えたんだけど。羽目を外すなら貴方ね」
もっともらしい文句だった。誘い方ならいくらでも知っているだろうに、ぎこちなかった。気障になるには真面目で、しかし蒸した夜にボタンを外さないでいられるほど冷めてもいられないような質を垣間見た。それは、俺も同じことだった。
「それは、どうして?」
「だって、貴方、私と違うから。埒外なの、門外漢なの。そうなのに暖簾をくぐるところなんか特に。だから…」
「興味を持った?」
「違うの。興味なら、私だって見境なく持つことだってあるわ。遊び心じゃないけどね」
でも、
「知らない街のことは、知らない街のひとに案内してもらいたいの。私、外に飛び出したいのは1度きりなの。1度めを知ったら、きっと飽きるの。勇気が要らないと、つまらないの」
「今回のは怖い…?」
「もちろん。怖くて、怖いから浮足立つの。浮世離れしてる。もう子供じゃないの、怖いことなんかしないでしょ?」
「閉館したら、じゃあ…俺もあんまり知ってはいないけど、覚えのあるところに行こう」
少し、嘘だった。泊まる場所はさほど冒険しないから、あんまり知ってはいなかった。覚えがあるのが嘘だった。もう見知って、常連のところに行こうとしていたのに、慣れた、という程には見られたくなかったから、嘘をついた。火消しの水みたいに冷たく思われるのを嫌ったのだろうが、この子は、その冷気に燃えたのだ。俺は、こういう、咄嗟の見栄が積み木に引っかかって揺らがしてしまうのに、ケーキに刺したろうそくを、風が横切った心地を覚えて目の前が暗くなる。
「ええ、うん。お願いするわ。今日は全部、任せるつもりだから」
子供みたいな、未亡人のような顔が全然変わらなかった。

6月18日、一部屋
「ここ?綺麗な部屋…」
「気に入った?」
「えぇ。全然、何でもないときとか…ううん、パーティにでも使ってみたいくらい。キラキラしてる」
 俺は、どこまで見栄の男だろう。紳士の真似事をやってみたのも、あんまりに自分を男と呼ばないのも…総て、白状しよう。誰にとも無い懺悔しよう。どこまでも見栄の男なのだ。現にいまも、この部屋を、俺が選んだのを誉められたので安堵なのだ。いやな気を持たせなかったからではない。いやにさせても、いちばん傷つくのは俺の自尊心だろう。俺は、お前はそういうやつだ。お前は、男というものを散々見てきて、また、見られるのは一瞥でも怖がるから女に男と映るのを避けてきた。いや、避けては来られなかっただろうが、無視できる方法を知っていたのでなんとかそうしてきたにすぎない。
 慣れないことなんぞするからだ。
「まず、シャワーを浴びるんでしょ?友達がそんなこと話してるの、聞いたことがあって」
「そう。俺から行ってこようか」
「一緒に行くんじゃないの?」
「友達が?」
「うん」
「好きだったんだろうね」
「好きじゃないの?」
「いや…」
何も、言えない。俺に恋情なぞ、もうないふうにしか思わない。
「私ね。」
あぁ。
「貴方が好き」
「俺は見ての通り、見えるよりもっと汚れてる。こんなだから気障なことを言うけど、君となら俺はやり直せる。きっと。だから、来世では結婚しよう。もっときらきらした場所、探しておくから」
「うん。絶対。」

 契りを交わしてからも、俺の図書館への足は絶えはしなかった。

7月3日
「ね、待った?」
「いや、丁度良かったよ」
「よかった…今日は一緒に。いい?」
「行こう。全部、今日はそれからにしよう」
「嫌?」
「刺身で米を食うより、寿司が好きなだけだよ」
「なら、行きましょ」

「ここのって、ちょっと熱いのよね」
「ここに来る、俺らとかには体は暑い方が健全だし、ね」
「それもそっか…ふふ」

「そうだ、これ、見てよ」
「うん?」
「綺麗じゃない?」
「似合うと思う。肌の細いのにはかっこいい」
「無骨かとも思ったけど…男はそういうのに弱いの?」
「そう…かもね。俺は良いと思う」
「なら、少しくらい変に見られてもいいかもね」
「うん…俺にはそういうのないから…」
「われものじゃない。目も、声も、ファンの1人や2人…」
「そういうのが好み?」
「好み…そうかもね。ねぇ…。」
 背中。片手。あたたかい。
 腹。先端…中腹。痛い?冷たい?
「私、あなたとしか遊んでないの。」
 声がこもる…
「ずっと…ずっと。もうさみしくならなくていいの。私じゃないの。あなたが。ね。大丈夫よ。」
 どこを見てるのか…彼女と。天井?壁?
「二年にもなるのね…ごめんね、ごめんね…」
 誰なんだろう。
「私もすぐ、あなたのところに…」
 臓に詰まったごみは、掃いたのに。
 もう…
 あぁ、これが恋で、いいか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?