背教者

 廃墟の取り壊し工事をするのに、一人下見に来た。夜半で暗く、足場もガラクタだらけで鬱陶しく、三分も見ずに家を出ようとしたところ見つけた、紙の束。魔がさして持ち出したのを、とうとう耐えられず、ごみの大きいのに座って読みだした。

『俺はアイツが嫌いだ。俺が、だ。アイツも俺のことをは大して好かないらしいが、そんなことはどうだっていい。好かれたら、顔面蒼白で真昼から岬にでも発って入水してやるが、嫌われていれば俺にもあのツラを歪ませた実績が付くだけで、それももちろん喜ばしい。喜ばしいが、なんとも思われていなくたって、空しいだけだ。俺みたいな、あのホトケサマに唾吐く野郎にはそのくらいの方がむしろ箔が付く。昨日もあんな、あの子に馴れ馴れしくしやがって。感謝されるのがそんなに好きか。羂索ぶったとこで、お前のはらわたなんざその辺の下郎と変わりゃしねぇだろうに。だからか。だから感謝されてえんだな。されたことがねえんだな。俺はある。あの子にだって。お前が来てから、店が少しよく回るようになったよ、忌々しい。なんだってお前は、救世主をやる腹積もりか。知らんぷりするつもりか。それもいい。大いに結構。救済をする奴はいつだって、一寸先は磔だ。十字架だ。お前の母は、マリアなんかじゃなく、普通の女だ。お前が現代のイエスに成れる奴だったなら、現代のマリアは不倫妻になるしかなかった。親孝行しろよ。第一、お前はなんだって俺の自慢を縮こまらせる真似ばっかりするんだ。笛を吹くのなんか、この田舎じゃ俺くらいだったんだ。何人かに教えはしてるが、皆俺より下手だしな。万に一、誰かが名手になったとしても、俺の教えたのがよかったんだって箔だ。お前も同じくらい上手いばかりに、これじゃ俺の教わり手が捌けてくのなんざ時間の問題じゃねぇか。そうなったら
、お前は、聖人のくせに十戒の何番だったか、盗むべからずを破ることになる。お前の方が、たとい俺より下手でもそうだ。俺が教えられるのは、笛の外は煙草と酒くらいしかねぇ、お前は、何でもできんだ。何でもじゃない、みたいなのをこないだ言ってたが、テメェ、俺のどこにも無いもの何個で、十分全部なんだよ。俺はいつでもなけなしなんだ。そういや、この前だって、煙草ひと箱買うのに金が足りねぇって話してるとこにわざわざ入ってきやがって、一つくらいなら買ってやるだの、やる金だから返さなくていいだのと。地獄に墜ちろ。蜘蛛の糸はねぇぞ。あったら俺が、お前を踏みつけて登ってやる。目の前に居なければ、わざわざ呼び出してそうしてやる。俺は救われたくねぇんだ。煙草の件だって、買えねぇで一本と火を貰うのが良いときだってあるのに、買えちまったら口実がねえよ。丁度あのときがそれだったってのに。そう、だから、救われたくねぇ。それなのに、お前を踏んで糸を登ってやる。踏むためなら登りもする。だって、第一、お前はホトケサマにして皆から施されてるじゃねぇか。それじゃあ道理が違ぇよなあ。だから、お前は、こんな末路でよかったんだ。なあ、お前がさ、もう、堕天しようが回心しようが、なんだっていいんだ。なあ、俺は決めたんだ。俺はユダだ。いままで一回も、お前に嫌な顔なんか向けてこなかっただろう。施されてやっただろ。ちくしょう、少し助かっちまった、ちくしょう。こんなん似合わねぇ。きらいだ。俺は、俺自身に密告したんだ。だから、自分の手を汚す。あぁ、俺らしい。ホトケサマは、他のそういうのと一緒の、助けてくれないデカブツになんだな。なるんだよ。もう、足もすくんで立てまい?磔は、時間がかかるんで後でやっとく。必ず。この、踏襲の損ないだけは懺悔しとかねぇとな。』

後日、ごみ山と、十字架に掛けられた一人の死体、その傍らの紙束が撤去されたうえで、廃墟は取り壊された。

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