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撮った写真が初めてメディアに出たときのこと

初めて「作品」が公のメディアに載ったのは1980年。
高校2年生の夏のこと。
載ったメディアは月刊カメラマンでした。

月例の正統な応募作品ではなく、
「一発必写」というウケ狙いというか、
シャッターチャンス勝負のコーナー。

ここに自習時間にふざけているところの写真を出したのでした。

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勝算はありました。
ドキドキしながら、夏休み中に発売になった9月号を開いて、ヤッターと思ったのですが。

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「熊本県熊本市」が「態本県態本市」になっとる。
どうやってこのような打ち間違いをやるのかと首をひねるところです。

いま同じように首をひねった皆様はデジタル世代あるいはデジタルに侵された皆さんですね。
脳みそが「変換ミス」と囁いているはず。

この時代、印刷工場の現場では活字を拾って印刷のための版を組んでいました。
原稿ミスではなく活字の拾いミス。
同じ部首の似た形の活字を拾ってしまったのです。
職工さんの目が悪かったのかもだし、夕方で目が疲れていた頃の作業だったのかもしれません。

採用されないという可能性は考えていたけれど、それは予想していなかった。
しかし当時もっと予想していなかったことがありました。

モデルになったというか、居眠りしていてトイレットペーパーを巻かれた彼が、僕と同じ大学に同じように一浪して進学し、そのあとめちゃくちゃ努力してNHKの紅白歌合戦で歌うまでになったこと。

「手紙」という親への介護をテーマにした歌で多くの方の心に響く詞を歌った樋口了一君です。

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