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言葉の限界と椎名林檎

人と喋りながら自分の表現に納得いかない時は多い。

もちろん語彙力の問題もあるが、きっと大体の人が言語だけで伝えるのは限界があって、受け手側も全て理解しているかなんて分からない。
聞き手次第で(何ならその人の体調や諸事情で)ことごとく認識なんて変わるからだ。

話し手は伝わらなくて当たり前の認識ができれば落ち込むこともないし、受け手もそんなあやふやな言葉で傷つく必要もないし、信じる必要もない。

しかし言葉はとても分かりやすいから、時には人を、使った本人をも傷つける物でもある。
相手が特に大切な人であるなら尚更、言葉選びは慎重でないといけないと思う。

この人なら全部を伝えなくてもニュアンスまで分かってくれるだろう、はエゴだから。不確実な言葉で伝えたいなら、それなりの努力は必要だ。

つまり言葉は不確実だからこそ、思いやり力が計られる要素と言えるだろう。

この言葉だけでは伝えられないもどかしい部分を、音楽を使って抽象的に代弁してくれるアーティストって半端なくかっこいいなあと、憧れが溢れて急に投稿してる所存です。

この真面目さ故に遊びを使う感じがたまらない。思慮深さを前提として聞き手に解釈を委ねる構造は、人としての余裕まで感じられて本当頭が上がらない。(全アーティストがそこまで考えてるかは知りませんが)

だから椎名林檎先生が好きなんだと腑に落ちた。

しかし林檎先生崇拝には悔しさも伴う。
皆さんもご存知の通り歌詞がまあ難しく、学識の低い自分を思い知らされて辛い。歳をとってやっと理解できてきた部分もあるが、宗教とも絡めた歌詞とかとなると、何についてどこから勉強したらいいかも分からないレベルである。

でもだからこそ、ひとときで終わらず生涯愛せる作品となってるのかもしれない。
椎名林檎の作った色んな形の応援歌と共に人生を乗り越えられるなら、こんな幸せなことは無いな。

最後に、ある曲の歌詞で終わりたいと思います。
PVのAYA SATOさんがかっこよすぎて視覚的に、また音楽としてのノリやメロディーで前から好きな曲ではありましたが、ここまでちゃんと聞いてませんでした。気になる方は解説のYouTubeとか出てたりするのでご覧ください。かなり深い。

『鶏と蛇と豚』※歌詞は英語なので和訳

甘い蜜を覚えた。頬張りながら私はこれが瞬く間になくなってしまう事態を危ぶんだ。 自分が全てを平らげるまえに、あらたなぶんを蓄えて置くべく 口から蜜を溢れさせたまま奔走した。充分な量を集めて来た上で私はーー 更に貪り続けた。すると俄かに吐き気を催し遂に嘔吐した。
一度は満ち足りた筈が違っていた。 望んだものに有り付いてなぜこれほど 厭わしい思いをさせられるのであろうか。 はじめは確かに好ましく感ぜられたこの蜜が まさか毒なのではあるまいか。 私を貶める罠か。
誰かに呪われている。恨みを買うようなことは何もしていない。 なお且つ己の心身の都合なら 己が一番わかっている。やっぱりおかしい。
愛するのは、自分だけ。 目で視て、耳で聴いて 鼻で嗅いで指で触れて、 そして舌で味わった私の体験こそが、何にも代え難く尊いものである 。


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