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「ベート・シェアリムのネクロポリス:ユダヤ人再興の中心地」にシャバットだけど行ってきた

自分にとって3回目のシャバットで、退屈してうずうずしていたところ、一部バスは運行していることに気づき、片道1時間半かけて、世界遺産の「ベート・シェアリムのネクロポリス:ユダヤ人再興の中心地」へ行ってきました。日本人の方にはあまり馴染みがないと思うので、少し丁寧に紹介します。

概要

・登録年:2015年
・登録基準:(ii), (iii)
(ii)→Bet She’arimのカタコンベは、古典ローマ美術の影響を示し、かつヨーロッパ、小アジア、メソポタミアとの異文化交流を示す碑文も見つかっている。
(iii)→Bet She’arimのネクロポリスは、総主教ラビ・ユダのもとで、復興と存続の時代にあった古代ユダヤ教の優れた証拠
・紀元前2世紀以降に作られた。
エルサレムの外にあるものとしては主要なユダヤ教徒の墓地。イスラエル最大。
ミシュナの編纂者であるラビのYehuda Hanasiの墓があり、彼がここに埋葬されたことで、ディアスポラから来た多くのユダヤ人が最後の安息の地として求めた。
*ミシュナとは、口伝律法を体系的に編纂した書物のこと。また、これに解説文ゲマラが付随したものをタルムードという。

歴史

名前の由来

諸説あるらしい。
1. Bet She’arimはHouse of gateの意味で、街の城壁の門にちなんで名付けられた
2. 周囲に広がる大麦畑(ヘブライ語でse'orah)からインスピレーションがあった
3. アラム語でBeit Sh'areiやBeth Sh'areinと呼ばれる
4. ギリシャ語でBesaraと呼ばれる(碑文による証明あり)
Bet She’arimはアグリッパ1世の娘Bereniceの領地の中心地として、Josephus Flaviusにより初めて名前が言及された。

石灰岩質の岩。写真だと伝わらないのですが、すごい窪んだところにかなり小さい入り口が見えます。
中の様子。墓地なので写真を撮るのが躊躇われましたが、1枚だけ勉強のつもりで撮らせていただきました。

発掘と研究

1904年、ロシア人のAlexander Zayidがイスラエルへ移り住んだ。1926年、警備員としてSheikh Abreikの丘に定住した。1936年、洞窟の開口部を偶然発見。彼の趣味は発掘だったらしい笑
そして2年後に殺害される。パンドラの箱を開けてしまったということなのでしょうか…
地元ヘブライ大学などにより、その後も発掘調査は続き、シナゴーグ、バシリカ、住居、オリーブ油圧搾場を含む、10ヘクタールの面積を持つ古代都市の遺跡が明らかになった。
現在も調査は続いており、未だ全貌が明らかとなっていない。

巨大な石棺。重要な人物の棺だったのでしょうか?
謎の獣が施されている石棺
メノーラが形どられていた

まとめ

ユダヤ人の初期の歴史を肌で感じ取ることができる場所でした。不思議な点がたくさんあったので、今後の発掘調査に期待したいと思います。
My 不思議ポイント
1. 9tのガラスの岩盤(写真取り忘れ。痛恨のミス。超疲れてた…。)
2. 異文化交流の証拠が発見されたが、ユダヤ人が持って帰って来たものなのか、それとも各地の人々が持って来たものなのか。出どころによって解釈が変わると思う。

ここは車で行くべき場所でした。徒歩でも行けますが、かなり疲れた。赤ちゃん連れて行く方は足元お気をつけて!

*追記

行った時に貰ったパンフレットをスキャンしました。個人の予想では、写真左の墓地と右の墓地は繋がっているのではないかと思います。

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