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助けてくれるはずの人が助けてくれない II

No one to turn toについては、繰り返し描いた記憶なので、ここでは繰り返さない。(どこに何を書いたかわからないけれど、とりあえず、IIにしておいた)

助けてくれるはずの人が助けてくれないことに対して、私はこだわりが強すぎると自分でも思っていて、何で何だろうと探り続けていたのだけれど、自分の家でセクシャルアビュースにあっても、思春期に病院でセクシュアルアビュースにあっても、通常助けてくれるはずの母親が助けてくれなかった、取り合ってもくれず、むしろ私に嫌悪感が向けられた、そのことを受け止められていないから、あるいはいなかったから、だと思う。

つまり、助けてくれるはずの人が助けてくれないことにトラウマがある、あるいはあった、ということだ。このことに合点がいって、分かったことがもう一つある。

私のレイキマスターが、セクシュアルアビュースにあう子どもは、そうなることを選択して生まれてくる、例えば、セクシュアルアビュースされて殺されることで世間の注目を引くことができて、それがベネフィットになり得るから、それなのにサバイバーはそのことを拒絶することが多いと言った時に、とてつもない不快感を覚えたのは、何故なのかも探り続けていた。

彼女は、私が受け止められないから、だと思ったようなんだけれど、そうではない。それはアンタが言っていいことじゃない、という強烈な不快感だったのだけれども、これは、ポジショナリティの問題としてすでに探求されている。

ピア同士のサポートが不可欠な話題というのがある。それは、互いに同じ問題に対してエンパワメントを必要とし、エンパワメントされながらプロセスをすることを必要とするからだ。自分に起きていることを受け止めて消化するのが、プロセスするということであり、生き延びるために必要な作業だ。その作業の際に誰が何を言うかということは、極めて重要になる。これについても、多くの探求がすでに書かれたものとして存在する。

人がどういうところにどういうふうに生まれるかを選んでいるという話を、ある種の人びとが必要としていることはわかる。しかし、そうではあっても、そのことについて、言っていい人と言うと害になる人がいる。あるいは、そういう状況がある。そのような、人の弱い心の中に土足で踏み込まないことに関する知識の探求は、人を思いやる方法の探求であり、プロセスという行為を促したり阻害したりすることへの配慮そのものだ。そういうことへの知識の無さは、反省すべきことだ。

私のレイキマスターに対する不快感は、土足で踏み込まれた側の悲鳴を、踏み躙ってしまう知識の欠落、に関する知識の欠落に対するものである。それは批判されて然るべきであり、本人が何かのスティグマを背負っていようがいまいが、関係ない。むしろ、人より重いスティグマを背負っているのに理解のないことが、より私を傷つけた。

まさに、助けてくれるはずの人が逆に傷つけてくる、私のトラウマそのものの再演だったからだ。

トラウマの再演という概念についても、日本語で書かれたものと英語で書かれたものにかなりの齟齬があるので、それについて探求しようと思って、一年半くらい忘れていた。また機会を見て、取り組むことにしよう。

さて、私がカミングアウトしないで研究や授業や講演をしていたことは、トランスやゲイやレズビアンのトラウマの再演を手伝ったのだろうか。あるいは、何か別のことがそうしたのだろうか。それらについて、私も話を聞かないといけないと思う。

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