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マニラの黒い影


 現在三十代の優人(ゆうと)さんが二十代前半の頃に、短期の語学留学でフィリピンのマニラに半年ほど滞在していた。
 その間暮らしていた家は、アジア各国からの留学生が集う集合住宅だった。住人のほとんどが二人一部屋でルームシェアをしていて、優人さんも年齢の近い日本人男性と同じ部屋で生活していた。

 その日、ルームメイトは外出しており、優人さんは部屋で机に向かって本を読んでいた。読書に没頭している間に日が落ちて薄暗くなってきたため、一旦席を離れて部屋の明かりをつけた。読みかけの本に戻ろうと、机があるほうへ身体を向ける。

 そのとき、机の上の壁際に黒い影が浮かんでいるのが見えた。優人さんのものではない。部屋には影の原因となるものは存在していなかった。

 それは、いわゆる<棒人間>の形をしていた。背丈は一メートル六十センチほど、頭は円形の曲線で、胴や手足はそれぞれ直線で形成されている。横を向いたかと思うと、両手を振りながら両足を上下させ始めた。走っているらしい。

 <棒人間>は部屋の端から端まで走ると、壁に吸い込まれるように消えていった。ほんの一瞬の出来事であった。

(な、何だ、今のは⁉)

 優人さんはたった今目撃したものを思い返して、何だったのかを考え始めた。そのさなか、隣の部屋から

「ギャッ」

と短い悲鳴が聞こえた。やがて隣の部屋に住んでいる台湾人女性のAさんが、優人さんのもとに慌ただしく駆け込んできた。どうやらAさんも、優人さんと同じものを目にしたらしい。

 詳しく話を聞くと、優人さんが住む部屋の方向にある壁から、黒い影が出現し、部屋の端まで移動して消えた、とのことだった。優人さんが見たものと同様に、記号化された人型のようなものが走っていた、と教えてくれた。

 後日、他の部屋に住む留学生たちに影の話を振ってみたが、そのようなものを見かけた人は、優人さんとAさんだけだったという。