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隣人

 大学卒業が間近に迫った三月上旬の昼下がり、恭介さんは、下宿をしているアパートでのんびりと過ごしていた。

 長く過ごしたこの部屋も今月末で引っ越しか――と四年間の出来事に思いを馳せる。
 築年数は古く、ほかの住人の生活音が聞こえることもあるが、最上階の突き当りとなる角部屋で、周辺環境にも問題はなく、気に入っている部屋だった。

 ふと隣の部屋から硬いものを叩く音が響いてきた。金槌で釘を打っているのだろう。隣に住んでいるのは、おそらく一人暮らしの男性である。

 恭介さんが入居した後しばらくして引っ越してきたようだが、一度も顔を合わせていないことに思い至った。

 日曜大工でもしているのか、たまに釘を打つ音が聞こえてくるので、男性が住んでいるのだろうと予想していたのだ。
 ただ、話し声が聞こえたことは一度もなく、客が訪ねてきている様子もなかった。

 どんな人なんだろう――この部屋を去る日が近づいたからか、これまで気にしたことがなかった隣人の存在が気になり始めた。じっと耳を澄ませていると、トイレを流す音や足音が聞こえてくる。

 加えて、別の方向から誰かの話し声が聞こえてきた。

 これは隣の部屋ではない、外階段からだ――すぐ気が付いた。話し声は男性が二人と女性が一人。会話の内容から察するに、恭介さんが在籍している大学にこの春から入学する高校生と、その母親が下宿先の内見に来たらしい。

 隣の部屋から気が逸れて、玄関のドアスコープから外廊下を覗いてみた。スーツを着た男性が物件の案内をしながら、隣の部屋のドアへ鍵を差し込んでいる。

 え? 隣の部屋……? さっき足音がしていたよな、まだ人が住んでいるのに内見なんかするんだな――と恭介さんは驚いた。そして、それなら隣人との会話が聞けるかもしれないな――再び隣の部屋へ意識を向けた。
 しかし何分経っても、隣人らしき人物の話し声は聞こえなかった。しばらくして三人は部屋から出てくると、スーツ姿の男性がドアにしっかりと鍵をかけて去っていった。

 恭介さんはひどく混乱した。隣の人はどこへ消えたのだろう?


 それきり、恭介さんが部屋を退去するまで、隣の部屋からは一切物音がしなくなった。

 思い返すと、恭介さん自身が大学に入学する前にこの部屋の内見に来たとき、隣の部屋のドアには「立ち入り禁止」の文字が入った黄色いテープが貼られていた。

 恭介さんが入居した後も一カ月はテープが貼ってあったと記憶している。そしていつの間にか隣から物音がしていたので、てっきり入居者が決まったものだと思い込んでいたのだ。

 四年間も住んでいながら、隣人を一度も見かけないことに疑問を抱かなかったのか、考えても答えは出なかったという。