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たった一枚の麻衣_現代人のための仏教説話50


昔、天竺(インド)の舎衛城(古代インド北東部のコーサラ国の首都)には無数の家があり、その中に勝義という名の一人の男がいた。非常に貧しくて一銭の蓄えも無く、夫婦して都中の家々を回って食べ物を恵んでもらい、露命を繫いでいた。

そんなようすを見たお釈迦様は、二人を教化(説法教導して仏の道に向かわせること)してあげたいと思われ、弟子の中で一番修行が進んでいる迦葉(摩訶迦葉。釈迦十大弟子の一人)を男の家に向かわせた。

迦葉が男の家に赴いて、「どうか、お恵みを」と乞食すると、男は呆れた顔で言った。

「お釈迦様のお弟子さんであられるのに、ずいぶん心無いことをおっしゃるものですな。わが家は貧乏で何の蓄えも無く、この町の家々を回って食べ物をいただき、やっと生きているありさまだ。そんなところへ来て物乞いをされても、差し上げるものなんて何もありゃしませんよ」

「たとえ僅わずかでも、何か恵んでいただけませんか」

勝義は返す言葉がなく、黙ってしまった。すると妻が出てきて言った。

「あなた、なぜこのお坊さんに何も差し上げる物が無いなんておっしゃるんですか。うちにはあなたと私とで使っている麻の着物が一枚あるじゃありませんか。ほら、私がちょうど今着ているこれよ。お坊さんは立派な物を恵んで欲しいなんて言ってるわけじゃありません。どんな物でも結構だと言ってらっしゃるんです。ですから、この麻の着物を差し上げましょうよ」

「おいおい、バカなことを言うものじゃないよ。その着物はわが家でたった一枚しかない物だ。私がそれを着て出かけるときはお前は裸でいなくちゃならないし、お前が着て出ていくときは私が裸でいなくちゃならないというありさまだ。もしその着物を施したりしたら、私たちは乞食に行かれなくなり、たちまち飢え死にしちまうよ」

「あなたはなんて浅はかなことをおっしゃるんですか。この身はいつどうなるかわからないものです。長生きしたところで、所詮は死ぬ運命にあります。生き長らえても、やがて死んでしまえば塵や土埃になってしまうのです。私たちは、前世で施しをしなかったばかりにこんなに酷い貧乏暮らしをしているんです。大勢の人が暮らすこの城下で、こんなに貧しいのは私たちだけでしょ。これは前世の報いです。この世で何も施すことなく死んだら、あの世でまた地獄に落ちて餓鬼となり、苦しい思いをすることになります。そんなのは我慢できません。だから、私はこの着物をお坊さんに差し上げたい」

勝義はまだ納得できないでいたが、妻はそれをなだめ、着物を脱ぎながら言った。

「お坊さん、ちょっと目をつむっていてくださいませんか。私は丸裸になってしまいますから。恥ずかしいので見ないでいてください」

そこで迦葉が目をつむると、妻が畳んだ着物を差し出したので、迦葉は受け取って鉢の上に置いた。迦葉は夫婦の願いが叶うように祈りを捧げ、去って行った。

寺に戻った迦葉は、お釈迦様の前に出て「勝義の妻から、このようにして施しを受けました」と、その時のようすをつぶさにお話し申し上げた。

聞いたお釈迦様はただちに光を放って、東より始めて南、西、北の仏たちを招き集め、勝義夫婦の願いが叶うように祈りを捧げ、「なんと立派な人であろう」と深く感心し、お褒めになった。この時、お釈迦様が放った光を見た波斯匿王(深く仏教に帰依した王)は驚き、急いでお釈迦様のところに馳せ参じた。そして、寺に着くなり目連(目犍連のこと。釈迦十大弟子の一人)に「あの光はいったいどうしたのですか」と問うた。

「勝義という家のことで、お知らせしたいことがあったのです。この家の夫婦は貧しくて、町中の家々を回って食べ物を恵んでもらって生きています。そこへ今日、迦葉尊者が乞食に赴いたところ、夫は何も無いといって断ったのですが、妻は夫婦で大事にしているたった一枚しかない着物を惜しむことなく施してくれたのです。お釈迦様はこの行いを讃嘆され、光を放たれたのです」

聞いた王は涙を流して感動し、取り急ぎ自分の着ている衣服を脱いで着る物が無くなっている勝義のところへ送ってやり、そのうえで、「国の蔵にあるいろいろな財物を勝義のところへ運んでやれ」と触れを出した。勝義はたちまちにして豊かな長者となった。それを見た人々は、仏や乞食の僧への施しは惜しむべきではない、と語り伝えたという。

〔今昔物語集・巻第一第三十二〕

【管見蛇足】死を見定めた者に怖いものなし

 この話に出てくる妻は、裸になってまでして迦葉尊者に施しをした。自己犠牲の極致である。こんな人がいたら、古今東西どこにあっても称賛され、尊敬されるはずである。

「すべての人間は、他人のために自分を犠牲にする覚悟のある者に対して尊敬と畏敬を覚える。これこそ宗旨や教条の問題ではない」(ヴィヴェーカーナンダ『カルマ・ヨーガ』)し、「自己犠牲の精神によって、人はいっそう輝きを増す」(周恩来)ものである。時代を超え、国を越えて、「自己犠牲は美徳の条件である」(アリストテレス)のだ。
 この話の妻は、「この身はいつどうなるかわからないもの。所詮は死ぬ運命」と死を見定めている。そうあってこそ迷いなく清々しい施しができるものなのだろう。
「人は死から目を背けているうちは、自己の存在に気を使えない。死というものを自覚できるかどうかが、自分の可能性を見つめて生きる生き方につながる」(ハイデッガー)。また、身を捨てた者に怖いものはない。「身をすてつるなれば、世の中の事何かはおそろしからん」(樋口一葉)。
 なお、自己犠牲は純粋で見返りを求めないものであるべきことは言うまでもなく、偽善的・売名的であってはならない。「犠牲を清らかならしめよ。自分を犠牲にした者は、自分を犠牲にしたことを忘れるのが、美しい犠牲の完成なのだ」(川端康成)。
 自分を捨てて他に施す、それによって最も幸せになるのは、他ならぬ自分だということは間違いない。「布施する者は福を得、慈心ある者は怨みを得ず、善を為す者は悪を滅し、欲を離る者は悩みなし」( 阿含経)ということだ。

仏教説話50 表紙仮画像

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