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学ぶ時間は誰にでもある(読書百遍義自ら通ず)
「勉強したいが時間がない」――これくらいよく聞く言葉はない。これは、「遊ぶ時間はあるが、勉強する時間はない」「勉強はしたくない」と言い改めるべきであろう。
その証拠に、酒屋はいつもいっぱいだし、土曜・日曜のゴルフ場は満員である。あるいはまた、麻雀に夜ふかしをし、休日はテレビの前でゴロ寝をしている人が何と多いことか。
「そういう休養も必要だ」というのは一理あるし、結構である。しかし、そういう人はもう生涯勉強はできないし向上もない。そう覚悟してからゆっくり休養することだ。
中国・後漢末から魏の初めにかけて、博学として知られ、大司農(大蔵大臣)にまでなった人に董遇がいる。彼は若い時から学問好きで、とくに「老子」に詳しいことで知られた。当然のことながら大勢の人が董遇のところへ弟子入りを申し込んでくる。しかし、彼は決して弟子入りを許さず『必ず当に読むこと百遍なるべし。読書百遍義自ら見わる』と言った。
「百遍も読む時間はありません」と人が言うと、『当に三餘を以てすべし。冬は歳の余り、夜は日の余り、陰雨は時の余りなり』(三国志・魏志)。冬と夜と雨の日に読書をすればよいというわけである(「三餘」の語源)
その気になれば時間は作れるし、百遍読めば自然に意味はわかる、ということである。
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