蟲毒

「血に濡れた蝶が舞い、白蛇がそれに絡みつく。血が白に落ちて、白蛇は銀の蛇になる」

 征牙はそう呟いた。そして指に残る傷跡を見つめた。指を少し曲げると瘡蓋が引きつるような感覚がある。無理に動かすと瘡蓋が破けた。かすかに血がにじみ出てくる。

 征牙は血をサッと舐め、椅子から立ち上がった。そして部屋の奥にある戸に向かう。そこは戸というにはあまりにも壁と一体化していた。ただ、木目の色がほんの僅か濃くなっているだけだったのだ。そこに征牙は手を当てる。すると突如その部分だけがくるりと回り、征牙を中へと引き入れた。

 中はそこら辺にある邸宅よりももっと地味な寝室だった。ジャケットを脱いで、ハンガーにかける。征牙はベッドに寝ころんだ。最近はろくにねる事すらできなかったのだが、今日は少しは寝ることができるかもしれない。心配事が多すぎるというのは不眠の原因になるというのは本当だったらしい。

 征牙は眠れないまま朝を迎えた。

 孤蝶は服を着替えて、髪を整えていると扉がノックされた。窓がない部屋だったので外の様子は皆目わからないが、時計を見ると朝の六時だった。
「はい」

 孤蝶がそう言って戸を開くと征牙だった。
「何か用?」
 孤蝶が少しつっけんどんに言うと征牙はふんっと笑いながら、
「用という用もないが……朝食はどうだ?」
 征牙はそういうと後ろに引いていたトレーを前に持ってきた。

「ええ。そうね」
 孤蝶はそう言って、朝食だけ受け取ろうとした。
「俺の分もあるんだ。毒が入っていないとは限らないだろう?」
 そういうと征牙はするりと部屋に入ってきた
「そう」
 孤蝶は奇妙だと思いながら征牙に続いた。

 そして孤蝶と征牙は黙って朝食を並べた。パンとサラダとスープだった。
 席について手を合わせてから、孤蝶は勝手に食べだした。征牙も同じようなものだった。

「楽しく会話しながら食事するのが通りだろ」
 征牙はそう言って皮肉っぽく笑った。
「ええ、そうね。話し相手が敵じゃなかったら私もしゃぺっていたでしょうに」
「敵だなんて大層なものにしていただかなくて結構だよ。ここではただの征牙だ」

 孤蝶は軽く目を見開いた。
「ふん。では私からどうでも良い話を話そうか」
 孤蝶はそういうと上品に紅茶を啜った。
「今読んでいる本がなかなか良いところまで来ているのだが続きが読めなくて困っている」
 征牙は愉快そうな顔をした。

「ふぅん。俺に持ってこいと言いたげだな」
 孤蝶は肯定も否定もせずほほ笑んだ。
「その本の題名は?」
「『蟲毒』」
 征牙は少し目を見開いた。
「ああ、あの本か。俺も読んだことがある。それで、今どんな場面なんだ?」

 孤蝶と征牙はその本について優一時間話した。
「なかなか、文学に詳しいのね」
「別に、ただ少し興味があっただけさ」
「そう。にしては知識が豊富で、頭脳も秀でていらっしゃること」
「それは君にしても同じだろう」
 孤蝶と征牙は互いを見つめた。

「だからと言って気を許すわけではないけれど」
 孤蝶が言い放つと征牙は緩やかな微笑を一瞬で消して言った。
「知っている」
 そして征牙は立ち上り、部屋を出て行った。食器も置いたままだった。


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