私はイワシだった。
水族館が好きだ。
イルカのショーもどんなテーマでもいつも泣きそうになるし、様々な地域の様々な生き物が、あのスペースに集まっていることがいつも奇跡だと思う。
数ある展示の中で、今回はじめてびっくりするほど見入ったのは様々な海の生き物が集まる大型水槽だ。
鯛などのよくみる魚がたくさん泳いでいて、その中で大きなエイが泳いでいて、無数のイワシが群をなして泳いでいる。そこをサメなんかが泳いでいる。
外から見ている人間たちは、「食べられちゃわないのかな」なんていう心配をする。
でも、無駄な殺生をしない彼らにそんな心配は無用なのだ。
混沌としていて、でも生命の秩序が保たれている。なんて素晴らしい世界なのだろうと目を離せなくなる。
そこで、ショーがはじまった。
外側から見ている人はみなわかりやすく「???」という顔をしている。
ここはイルカのプールでもなければ、ベルーガの水槽でもないし、アシカもいないのだ。
大きな水槽が突然様々な色の光に包まれる。そして、岩の隙間からなにやら『泡』が出てくる。
すると、
あれだけ秩序を保っていたイワシの群れが、散り始めたのだ。
あんなにきれいな形を持っていたのに。
びっくりするほど散り散りになったのだ。
もちろん一匹一匹の個体に分かれたのではない。
今まで数トンという単位だったのが、数百キロという単位に分かれただけだ。
でもそれは、人が恣意的に出した泡で、イワシが生きるためになしていた群れを崩してしまったということだった。
もちろんそれが、悪いことではまったくなくて、群れが崩れたからと言ってイワシを食べる魚がいるわけではない。どんなにばらばらになったって、エイもタイもサメも、我関せずという顔をしているのは変わらない。
それでも、私はその散り散りになったイワシから目が離せなかった。
まるで『私』が『イワシ』のなかの一匹になったような気がしてならなかった。
私が見ている世界は、いつでも私が切り開いて行ける無限の海だとおもっているけど、きっとこんな大きな水槽に過ぎないのだ。
私はいつでも、混沌に惑わされないエイやタイのような存在だと思っていたけど、きっと自分が食べられないことに必死なあのイワシの中の一匹に過ぎないのだ。
そして、どんなに自分で秩序を保っていようと思っても、外からくる『泡』には抗えず、すぐに散り散りになってしまう儚いものなのだ。
なんてちっぽけで、弱く、儚い世界なのだろう。
私はきっと一生イワシだ。
群れをなさないと、少しの波に飲まれてしまうような存在なのだろう。どんなに群れでいることを拒んでも、そうすることでしか生きられないのだろう。それは、友達とか職場とかそんなミクロな世界ではなくて、社会というマクロな世界に生きるということだ。
ほんの少し、悲しくなった自分がいた。どんなに頑張っても小さな『泡』に惑わされ続けるのか。そうやって生きるしかないのか。
ぼーっと泣きそうになっていると、ふいにイワシがキラキラ光っているのが目に入った。
きれいだな。と純粋に思った。
まぁいっか。とストンと腑に落ちるように思った。
きっと私のことを水槽の外から見ている人にとっても、私は弱く、儚く、あっけない存在だ。
でも、それは同時に美しいだろう。
だったら、エイのように大きくなれなくても、タイのように価値も上がらないかもしれないけど、サメのように強くなれないけど、
私はイワシのように美しくありたい。
秩序と混沌が入り混じった世界の中で、必死にキラキラと泳いでいたい。
ショーが終わって、泡がなくなっても、イワシがまた一つの群れになるには随分時間がかかった。
それは、わたしにとって思いもよらず、自分の世界の広さを自覚する時間になったのだ。
ありがとうイワシ。私も頑張るよ。
やっぱり、水族館が好きだ。
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