ジョン・マネー「性の署名」

さて問題の本。いろいろ悩んでた1990年代初めに読みましたから、その後の「批判はそれとして...」と好意的な印象を持ってましたが、いざ再読となるとやっぱり「困る...」というのがわりとショックです。


言うまでもありませんが、「ブレンダと呼ばれた少年」の一件、マネーが自分の理論の証明のために行った「性の再割り当て」が失敗に終わったこともあって、評判を下げたわけです。しかしね、この失敗は理論的には逆に「いったん固定した性自認は動かし得ない」という見方をすれば、実のところマネーが推進した性同一性障害に対するSRSの正当性は証明されていなくもないわけです。まあ、そういう解釈はできないわけでもないのですが....

いやね、やはりこの本は「性自認に合わせて、性器を改造し、性役割を変更すること」を肯定した、という意味で、大変意義深い本であることには違いありません。「ブレンダ」だって、「男の性自認」がすでに確立しているにもかかわらず、「女性の性器」とジェンダーロールを割り当てられて、悲惨なことになったわけですから....しかし、改めてこの本を読むと、「性自認は後天的に、言語獲得とほぼ同時に得られるものだ」という独断によって書かれてしまっているのを隠しようもないです。

性自認の分化に関する臨界期が言語の習得に関する臨界期と一致するのは、単なる偶然ではない。この関係は、概念を形成する言語活動の始まりのうちに見いだされる

言い換えると、「性同一性障害は、親の育て方が悪いからだ」という結論になってしまいます。いや、これ困ります.....そういうものではありませんね。しかも言語獲得と性自認の確立が同時になる実証がなきに等しいです。強いていえば、同じアンドロゲン過剰による性器の男性化を起こした遺伝的女性二人が、児童期に「性に関する話題」に対して選択的無言症を呈した患者として、それぞれ割り当てられた性別と逆の男と女を別に選ぶ、というこの本でも一番感動的なエピソードが、その代わり?

「先生、ぼくは男の子にはなりたくないのです。お姉さんのような女の子になりたい」
「私は男の子(Boy)にならなくちゃいけない」

言語の「男性名詞」「女性名詞」を指す言語学での「ジェンダー」に独自の意味合いを与えたのが、マネーであり本書であるのですが、逆にほかならぬ「言語」が「ジェンダー」の根底をなす、と誤った結論に導いてしまい、しっぺ返しを食らったようにも見えます。
まあだったら、名詞に性がなく、特に代名詞にも性別の指示が弱い、たとえば中国語で育てば、トランスジェンダーや同性愛が少ない、なんて結論になるはずなのですが、当たり前ですがそんな報告はありません。「言語」を過剰に崇拝するのは、やはり欧米的なロゴス中心主義のあらわれなんでしょうね....

で、前半の発生と性分化を巡るいろいろな分岐の話は、生理学的な根拠に基づいた「地に足のついた」議論なのですが、このように「性自認」については「言語」に関する余計なイデオロギーが誤った推論を導き、そして後半はアメリカの「性革命」を巡って、さまざまなジェンダーロールの押し付けに抵抗する運動を描く「社会学」的な著述になっています。まあそれでも、20世紀の医学・科学・社会の変化によって、

  • 寿命が延びて、子供の独立の後にも結婚生活が続くのが当たり前になったこと

  • 結婚年齢が上昇することで「青年期」が人生の中で独自の意味合いを持つようになったこと

の2点が、性革命の「条件」になっている、というそれなりに正しい指摘はあるのですが....いや、なんか冗長です。前半の切れ味は欠いています。

「歴史的文献」にしておくのが、無難というものでしょうか。残念です。

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