ジュディス・バトラー「ジェンダー・トラブル」

簡単に言うと、この本がややこしい理由は来歴にあります。80年代のデリダブームから、アメリカでフランスの「(ポスト)構造主義」がかなり「脱構築」されたかたちで受容されるようになって、フェミニズムの中で「ポスト構造主義」流の理論構成がなされるようになります。その流れに竿さして、バトラーが自分の理論を構築しよう、という状況をまず把握しておくべきでしょう。しかも、アメリカは独特の形でフロイト精神分析が受け入れられていて、そんな中にらラカン流やら導入されて行きます。なので、この本でも精神分析の議論のウェイトが高くなってます。いや...バトラーが一番準拠するフーコーって精神分析嫌いで「精神分析はリベラル・アーツの部類だ」とぶんげーひょーろん扱いにして切って捨ててるんですけどね....精神分析の虚名は今や地に堕ちて、治療上のエビデンスもロクにないのがアメリカでも暴露されてしまいましたが、まだそんな時代じゃ、ありません。であとフェミの実践上では、一応「女性のアイデンティティ」を強調する第2波があって、トランス排除とかあった時代であることも念頭に置いておくといいかな。

で、バトラー自身はレズビアン・フェミニストですからね、特に第2波とも共通するバックグラウンドはあるのですが、「女性のアイデンティティ」による運動論に反論するためにこの本があるわけです。本では名指しませんが「トランスセクシュアル帝国」への反論、でもあるわけですよ。ですから、「女が女である自明さ」の中で、運動論を構築しようという前提に、バトラーは反抗することになります。

実際、フェミニズムに安定した主体があると早まって主張し、それは女という継ぎ目のないカテゴリーだといった場合、そのようなカテゴリーは受け入れ難いと、あらゆる方面から当然のように拒否されてしまう。このような排除に基づく領域は、たとえそれが解放を目的として作られたものであろうと、結局は威圧的で規制的な帰結をもたらすものである。

と、「女である」ことに依拠しないラジカルな立場に立つことになります。で....このような「女」とは何か、ということになるわけですが、まあ当然のように「身体的な性器に基づくセックス」と「社会的な性別であるジェンダー」の二分法を仮の用語として導入するのですけども、「セックスという自然と、ジェンダーという文化」の分離を当然として受け入れるのではなくて、フーコーに倣って、

したがって、セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリーだとすれば、ジェンダーをセックスの文化的解釈と定義するのは無意味になるだろう。ジェンダーは生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書き込んだものだと考えるべきではない。ジェンダーは、それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことである。

と、「自然なカテゴリーとしてのセックス」があるのではなくて、「文化的なジェンダー」との分離の効果としてしか、セックスはないのだ、とします。いかにもここらの流儀が「フーコー流だよね」とおばさまとか思うあたりなんですよ。

で、このポスト構造主義の意匠の本当の問題点は、これによって「法の外部はない」という結論になるためです。いくら自然で自明に見えようとも、「性器のセックス」は連帯の根拠にもならず、完全に「社会構築論」的なジェンダーだけが現前し、その外部をいかに夢想することがあろうとも、それが解放の契機にはならない、というシビアというかニヒルな認識が根底にあるわけです。ですからこのラジカリズムには、連帯する相手もなく、解放されるべき目的もない、という八方ふさがりの状況が、隠れた前提としてあることになります....いや、ハヤリとは言いながら、なんでこんな理論、持ち上げたのかしら? 根底を疑えば疑うほど、孤立して、しかも厳然たる「掟」の強制性だけがあらわになるようなカフカ的な状況がたち現れてしまうことになります。ですから、ジェンダーの「まえ」や「あと」やら「どこでもない場所」に解放の契機を夢想するボーヴォワールもクリスティヴァもウィティックも皆々一刀両断です。でもこれを、内在的な批評によってバトラーは実現しようとするから、かくも晦渋な議論になっていくのですよ。

いや本当は精神分析が仮定したこと、というのはライヒ流の「エクスタシーによる性的解放が、とりもなおさず人間解放」というお気楽な理想主義にあったのでしょう。70年代の性解放がこの理想主義とその行き詰まりによって疑問に付される、という内密の動機が、ポスト構造主義流の精神分析理論の導入につながった、と見るのはうがちすぎでしょうか? つまり、エディプス化される以前の多型倒錯に理想を求めるのは、上記のユートピアの思想そのものなのですが、「父の法」という分かりやすい「悪」を名指すのが容易なために、フェミニズムが精神分析を「悪用」したことは、疑いのないことなのです。ですからバトラーのこの本の第二章が延々と精神分析を批判してみせることになるわけです。いやね、精神分析って本当に「社会構成論=親の育て方が悪い!」なので、実はフェミときわめて相性がいいんですよ。困っちゃう....でもね、私ら極東の異教徒のジャップですからね、せーしんぶんせき、と言われたってそもそもラカンに「日本人は分析不能だ」と匙を投げれられた人々ですもの。ですから、延々とバトラーが精神分析批判するのを御傾聴しても、へえ、くらいで済んでしまいます。実際、飛ばして読んでもいいんじゃないかしら。いやね、精神分析を批判するなら、一言で足りるでしょう。

そんなにコドモの性的発達の理論を精緻に組み立てたのなら、それを使って同性愛を「治す」とか性同一性障害を「治す」とか出来てもいいんじゃないかしら?

でもね、ちょっと気になるは....

性転換者(トランスセクシャル)は、自分の性的快楽と身体部分に根本的な不都合があると主張する場合が多い。快楽に関して求められるものは、たいていの場合、身体的部分に対する創造的関与である—その身体部分が、からだの付属部分であろうと、開口部であろうと、実際に所有していないものであろうと構わない。

とね、珍しくTSについて触れた部分があって、ここで「性的満足を得るために、トランスするんだ」というような妙な誤解をしている個所が見つかります。う~ん、これレズビアンのSEXから連続的に捉えて誤解しているのじゃないかしら.....いやかくも「性的解放=人間解放」というお気楽理想主義からバトラーさえも自由じゃない、ということなのかしら?

まあとはいえ、この第二章とより実践的な第三章でもクリスティヴァ論あたりは、ポスト構造主義らしく、バトラーは丹念に「外部」の可能性を潰していきます。そこで立ち上がるのは、「女」というものの「定義されなさ」自体です。フェミニズムの中心主題が「定義されない」事態に陥ってくるわけです。いやね....このバトラー、「フェミニズムの過激な主張のひとつ」の「クイア理論」というのが通り相場なのですが、実はフェミニズムの主張の前提を掘り崩すような過激さなんです。お気楽に持ち上げるようなものじゃ、ありませんよ。

フーコーが取り上げた両性具有者エルキュリーヌの補論のかたちで、当時最新の生物学的知見だった精巣決定因子(TDF、今でいえばSRY遺伝子)を取り上げていますが、やはり科学的な研究と対置してしまうと、「女性性は、男性性の有無で決定され」る発見を「男性中心主義」としてバトラーが批判する....いやいやこれ観念的な言いがかりの部類でしょう。実際、遺伝子とその表現型については、必ずしも決定論的な結論を一般に下すことはできない、のをイマの科学のコンセンサスとして捉えるのがいいのでしょう。要因が複雑に絡み合うために「男性遺伝子」を100%確実に指摘することは、やはり不可能です。SRY遺伝子があってさえ、その発現が妨げられて女性型の表現になることもあるわけです。つまり、生物学的にも「男性」「女性」はあくまで動的で継起的な「発生プロセスの結果」としての「表現型」なのであって、観念的にせよ唯物的にせよ「男性性の本質」やら「女性性の本質」があるわけではないのです。

ですから、バトラーの最終的な結論には、この現代の「科学的」なコンセンサスの方が、しっかり合致するのだとも思うのですよ。バトラーだって「男/女はパフォーマンスというプロセスによる結果であって、本質でも原因でもない」、でしょ?

ですけど、第三章になると、読みやすさは格段にアップ!

フーコーの系譜学的な批評は、文化的に周辺化されているセクシュアリティの形態を文化の理解不可能性として放逐するラカン派や新ラカン派の理論を、批判する手段を与えるものである。解放としてのエロスという幻想を捨てたところから論じることによって、フーコーは、セクシュアリティを権力にどっぷりと浸かったものと理解し、法のまえやあとにセクシュアリティを措定する理論を、批判的に見る視点を与えた。

と、フーコーを継承するバトラーのこの評価は基本的に正しいと思います。ですからこの本でのフーコー批判は、「フーコーが自分の理論に忠実でなく手を控えたところ」を意地悪く指摘している、という印象でもあります。ですけども、そうなると、まさに「出口」はないのです。「アイデンティティの政治学」は虚妄で抑圧的なものにしかならないのですが、ロマンティックな「法の外部」はどこにもないのです。まあですから、ここでバトラーはデリダ的な「脱構築」、せめてもの「撹乱」の方法論を提示するわけです。いやね...ここまでたどり着くのに、結構かかりますよ。ふう、疲れた。

ですから手っ取り早くバトラーの議論を理解しようと思うなら、訳者の竹村和子氏の要領のいい解説(訳文も実に分かりやすいです...すばらしい)を読んで、「身体への書き込み、パフォ―マティヴな撹乱」と「パロディから政治へ」を読めば、よろしい。問題はバトラー特有の「パフォーマティヴ」というジャーゴンなのですけども、これは「(それをあたかも信じているかのように)行為することによって、強化され信じられるような行為」あるいは「そういう行為によって成立する(実は架空の)法が備える特徴」という風な意味合いで取れば、とりあえずいいでしょう。ある種の「かのように」(森鴎外風のね)の哲学なのですよ。

だがそもそも同一化(アイデンティフィケーション)は、演じられる幻想であり体内化であるという理解によれば、首尾一貫性は欲望され、希求され、理想化されるものであって、この理想化は、身体的な意味づけの結果であることは明らかである。換言すれば、行為や身振りや欲望によって内なる核とか実体とかいう結果が生み出されるが、生み出される場所は、身体の表面のうえであり、しかもそれがなされるのは、アイデンティティを原因とみなす組織化原理を暗示しつつも顕在化させない意味作用の非在の戯れをつうじてである。一般的に解釈すれば、そのような行為や身ぶりや演技は、それらが表出しているはずの本質やアイデンティティが、じつは身体的記号といった言説手段によって捏造され保持されている偽造物にすぎないという意味で、パフォーマティヴなものである。

ですから、誰もが「男である」「女である」のパフォーマンスをしているのであり、そのパフォーマンスによってのみ、誰もが「男である」「女である」を実現している「だけ」なんだ、ということ、そして、実はその「男である」「女である」にはそれ以上の根拠は、どこにもない、ということをバトラーは見出して、それを利用する手段を考えていくわけです。根拠がない、をもう少しツッコむなら、「男である」「女である」パフォーマンスでさえ、どこかしらパロディくさいものであるとさえ、言えるわけです。「オリジナル」がなくて、シミュラクルしかない、となると、ちょいとボードリヤール風味でもあります。

アイデンティティの認識論的な説明から、問題を意味づけ実践におく説明へと変換することによって、認識論の思考方法が、ひとつの偶発的な意味実践の可能性にすぎないという分析に道がひらかれる

とこのように「パフォーマンス」という「実践」を強調する立場というのは....まあ、遅ればせながらの実存主義くささもあるのですが、しかしこれが偶発的な「かのような」のパフォーマンスであることから、「法」の「脱構築」への回路を開くことになる....というのが、まあバトラーの実践的な結論です。

「脱構築」なって言っちゃうとすごくエラそうなんですが、バトラー自身はこれを「パロディ」のイメージで頻繁に捉えてます。

異装のパフォーマンスは、演じる人の解剖学的なセックスと、演じられているジェンダーの区分をまたいでなされるものである。だが実際わたしたちは、身体性という意味をもつ偶発的な三つの次元―つまり解剖学的なセックスと、ジェンダー・アイデンティティと、ジェンダー・パフォーマンス—のなかに存在している。もし演じる人の解剖学的セックスが、すでにはっきりその人のジェンダーから区別できるなら、パフォーマンスは、セックスとパフォーマンスの区別だけではなく、セックスとジェンダー、ジェンダーとパフォーマンスの区別にも不調和を起こしていることになる。

つまり性の「首尾一貫性を傷つけるようなパフォ―マンス」に、バトラーは脱構築の可能性を見ている....のですけども、いやこれ要するに、ドラァグ・クイーンのパフォーマンスや、ブッチ・レズビアンの「オトコぶりっ子」ぶりを「脱構築」として評価しよう、という「実践」になるわけです。いうまでもなくドラァグ・クイーンのパフォーマンスって、女装趣味でも性同一性障害でもないゲイ男性が、女性の仮装を思いっきりケバくパロディ的に「演じる」パフォーマンスですよね。まあこれを「脱構築」とよぶのならば、まあ、そうかもしれないんですけどね.....ここまで引っ張ってきて、これか?というのはやはり感じますよ。

「ポスト構造主義」というのも、ホントは一種の「挫折の思想」みたいなクサさを、おばさま昔から感じていたのですが...カリフィアのカゲキさと比較しても、やはり微温的なニュアンスを感じる、と言っちゃうと、不当かしらねえ。

やはりバトラー自身も気が咎めるのか、

パロディ自身は撹乱的ではない。だが、なぜある種のパロディ的な反復が破壊的なもの、真にトラブルを引き起こすものになるのか、またどのような反復が文化の覇権の道具として馴致され再流通していくのかを知る方法は、かならずあるはずだ。

とやや保留するあたりが、なんかカワイイです。やはりバトラーはフレドリック・ジェイムスン「ポストモダニズムと消費社会」の一節を引いて、不真面目なパロディと、ジェイムスンが提示する「パスティーシュ」を「空白のパロディ、ユーモアを失ったパロディ」と紹介しますが、フーコーがニーチェから継承した「笑い(ユーモア)」から見て、これがどうなのか、は今一つちゃんと判断を示していないです。まあ、パスティーシュがパロディほどよくない理由もないでしょう。いやこのバトラーの保留は、やはりパロディという方法論の限界をやはり知っているからだ、という風にも、私は感じるのですよ。

実際、バトラーが「パフォーマンス」を自身の理論の中心的な実践に据えるわけですが、いやね、それなら私にも独自の言い分があるのです。パフォーマンスというのは、実は演劇ではありません。演劇は虚構を演じることで、舞台の上にイリュージョンを作り出します。パロディの機構は、実は演劇的なものです。だからこそ、ドラァグ・クイーンのショー(もちろん、パロディ的・演劇的な)を称揚するというような倒錯に陥るのです。本来のパフォーマンスは「何か変わった演劇」なのではなくて、

虚構を介しない、行為そのものが舞台に上がる

ような舞台行為なのですよ。アルトーの残酷演劇は、私はパフォーマンスの先駆だったと思ってます。演劇なら「食べるふり」でもいいでしょう。パフォーマンスでは「食べる」という行為自体に意味があるわけですから、「本当に食べる」と「食べるふりをする」の間に、厳密な実践的な違いが出てきます。つまり、バトラーはこのようなパフォーマンスの意味をはき違えているために、たかがパロディ的実践を「パフォーマンス」だと誤解するわけです。

言い換えると、真にパフォーマティヴな撹乱行為とは、実はこんなことになるのだと、私は思うのです。

トランスジェンダーが、完璧にパスしつつ、しかも埋没せずに、トランスしたことを明らかにしながらも、それを強調して主張することもない

これはパロディである面はまったくありません。これ見よがしな演劇性の対極にあろうとするパフォーマンスです。クィアであるのですが、クィアであることも主張せず、しかしクィアのままで世の中を押し渡ろうとする実践です。カリフィアと「帝国の逆襲」のストーンには、「パスしない」のを「クィアな方法論」として捉えよう、という視点がありますが、私に言わせるとね、「パス=埋没」でもないのですよ。

「完全にパスする」というのは、逆に「性器という生物学的根拠」の無意味さを赤裸々に示すパフォーマンスです。「ノンパス」は「笑い」と演劇性に回収されることが往々にしてありますから、いつも「これみよがし」です。どっちが過激か?というのは、もう一つよく考えてみる必要があるんじゃないのですかねえ。わざとらしく提示すればするほど、それは虚構に近づきます。「演劇」になってしまうのです。トランスが完璧に移行後の性別でしか認識できず、しかも「別な性別での過去」がしっかりあり、「移行」を隠さないこと....完璧なシミュラクルであること、これが「演劇」ではない「パフォーマンス」としての「クイア」なのでは?なんてね。

いやね、ちょいとくらいは自慢させてくださいませ。どうせ皆さん、トランスを自分の都合のいいようにお使いのご様子ですから、このくらいは自分を利用しても、バチはあたらないでしょう?

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