左派の「作風」とその歴史的没落(都知事選雑感)

都民ではありませんが、都知事選には関心をもって観察していました。蓮舫氏の選挙戦を見ていて、「これは、ダメだ!」という予感をもっていたのですが、結果として惨敗。なんでそう予感したのか?というのがこの小論のテーマです。

選挙戦の目的は候補者にとって「自分が好きな人を増やす」機会なのでしょうか?それは明白に違うのです。これは、

自分が嫌いな人を、いかに自分に投票させるのか?

が選挙戦で追及されるべき戦略的テーマなのですよ。この点で当選した小池百合子は間違っていないのです。小池百合子に投票した人の何パーセントが小池百合子が「好き」だったのでしょうか?? 「小池百合子って嫌いだけど」「小池百合子って人間は信用できないが」でも、小池に投票する….

これでまさにほぼ半数の票を獲得したわけです。「小池百合子が嫌いな人」が小池百合子に投票したために、当選したのですよ(苦笑)これが「政治活動」というものなのです。

逆に蓮舫は「蓮舫を嫌いな人」は蓮舫には投票せず、「蓮舫を好きな人」だけが蓮舫に投票しました。もちろん蓮舫という人に対する「好き・嫌い」をここで論じるわけではありませんし、そういうことは意味がないことだとも感じます。言いたいのは、蓮舫がこの選挙戦を通じて行ったのは「政治活動」というよりも、一種の「文化活動」だった、ということなのです。

そしてこの文章を書く気になった最大の動機は、左派の政治活動というものが、現在では「政治活動」の実質をなくし、「文化活動」というべきもの入れ替わっていることに気づいたことです。その「文化活動」の象徴的な例がこの蓮舫の選挙活動なのだと。

これがこの小論で追及する内容です。今から筆者が体験してきた80年代からの左派の政治活動の概観して、私自身がその左派の「作風」というものに強い違和感を覚えるようになり、それが左派の政治の影響力の喪失という大きな流れの中と、私自身の特殊な政治的利害と左派の文化・作風との対立の結果、左派を見放すようになったのか?という問題を語っていこうとも思うのです。

ここで今「作風」という言葉を使いましたが、これはもともと中国共産党で使われていたサヨク用語ですね。アーチストの「作風」とは違う言葉で、左派政党での「行動規範」「党内での作法」といった内面化・規範化された政治性を指す言葉です。私は一応、80年代初頭の左派の学生運動に関りがあって、在学中に大学での左派セクトが総崩壊するのに遭遇した世代になります。サヨク用語でいえば「階級的利害」といった職業生活に密接にかかわって人生全体から切り離せない利害と、それに裏打ちされた生活態度、それから生まれる政治的スタンスといったものが、戦後の「左派の作風」を築いてきたのです。しかしこれらの条件が崩れれたことによって、現実的な利害とは別なレベル、言ってみれば観念的な「左派のカルチャー」にしか、「左派の作風」の根拠を見出すことができなくなったのだと考えます。市民運動と連携した、といえば肯定的に表現したことになりますが、現在ではいわゆる「プロ市民」化した「運動のための運動」に依存したカルチャーにしか、左派が「作風」の根拠を求めることができなくなった…そういう様相をいろいろと見ていこうと思うのですよ。

蓮舫の「文化活動」としての選挙戦は成功していないわけではないのです。それに参加した「カルチャーを共有する人たち」はしっかりと大きな満足を得たのです。しかしそれは「政治活動」とは別なものとしての「成功」でしかありませんから、選挙結果としては惨敗に終わり、蓮舫氏自身も支持者も未だ自身の敗北に全然納得がいっていない様子が見受けられます。またRシールに代表されるその「カルチャー」自体が選挙戦後も物議を醸すことになったわけです。

「もはや戦後ではない」

かつて左派の支持基盤は、都市の勤労市民・労働者大衆にありました。学歴で言えば低学歴、収入で言えば低収入、工場労働者や都市で小商売を営む人々に支持されていたのです。ですから、左派は労働組合を通じて政治に強い影響を持ち、有産階級・経営者の利害を代表する「保守」と依存しつつも対立してきたのでした。
その間には鋭い政治的な対立がありました。しかし、その対立にも現実的な経済活動の中での相互依存という大前提がありますから、双方の利益を立てるようにちょうどいいあたりでの「落としどころ」を求めることもできたわけでした。労働者の賃上げの原資としては経営者への報酬と内部留保がありますから、「たかが」分配の問題に過ぎないと言えば過ぎません。
安保問題でさえ、米ソの冷戦体制の中で「どちらに付くのが有利か?」また「核戦争回避のために、日本がどう振る舞うのが賢明か?」という日本という国家のサバイバル戦略が前提にあり、極論すれば「安保反対」でさえもアメリカの「飴」を引き出すの戦術として有効活用、という見方さえできる「リアルな問題」だったのですよ。

このような対立はソ連崩壊と、バブル経済、日本労働組合総連合会(いわゆる「連合」)の成立によって、90年代初頭に事実上解消することになります。もちろん、戦後政治・戦後社会の進展と成熟を通じて、かつての左派的主張が多く社会制度に取り入れられ、「左派の課題」の多くが解決済みになったこと自体、必ずしも「左派の敗北」とは片付けられないと私は考えています。社会は豊かになり、かつ社会的不平等の多くは解消されてきたのですよ。ですから、左派政党は「仕切り直し」の必要に迫られたのです。この時代になって、左派はようやく「もはや戦後ではない」に直面したのです。

ほとんどの西欧諸国では、労働党の政権が何度も政権を取り、保守政党と社民勢力との間での複雑な合従連衡によって、政治が動いていきました。しかし、日本では一時的な新生党、民主党の政権を別にして、自民党が政治の枢要部分を占拠して、一見「保守独裁国家」のようにも見えます。しかし、本当にそうでしょうか?
自民党は党内でも多様ですが、保守というよりも漸進的なリベラリズムに軸足がある、と見るのが自然のようにも感じます。安倍晋三元首相でさえ、口先では保守を標榜しながらも、政策は事実上リベラルと呼ぶべきだとも感じます。これが日本の「特殊性」と呼ぶべきものでしょう。
だからこそ、国民の多くはそれぞれの時局の政争の中で自民党を批判しつつも、全体的には自民党の政治に満足してきた、というのが現実の姿なのでしょう。

とすれば、左派の政治の「根拠」はどうなるのでしょうか?

もはや労組は左派の味方ではありません。経済構造・社会構造の変化から、工場労働者をモデルとする「プロレタリアート」という社会階層自体が雲散霧消してしまったのですから、労組が続いているにせよもはや単純に「左派」の背景にはなりえません。

しかし、社会の変化はもちろん、さまざまなかたちでの細分化された「貧困」を生み出すのは仕方のないことです。ですから、そういう社会システムからこぼれ落ち、個々個別の問題を抱えた疎外された人々を、それぞれにきめ細かく掬い上げて一つの政治勢力としてまとめ上げる….そんなやり方しか左派の戦略としては採用ができないのでしょう。ですから、個別の「市民運動」に左派の政治は手を伸ばすことになってきます。70年代には学生運動に敗北した新左翼が「窮民革命論」をブチ上げましたから、その最新バージョンといえばそういうことになるでしょう。左派政党はそのような市民運動からの人材供給を受け、各種の「市民運動」と連携しつつ、その主張を構築していくことになっていきます。

いや私はその構図をまるっきり無効なものだと思っているわけではないのです。それなりに筋の通った左派の生存戦略ではあると思っているのですよ。しかし、かつての左派が持っていた「作風」はこの転換によって完全に失われましたし、古典的なマルクス主義の歴史図式も時代遅れになり果てました。
私たちは「プロレタリアートの職業生活から生まれる鉄の規律」という言葉によって教育され、そんな「規律」によって自身の政治性を律することを当然と考えてきました。しかし、その「プロレタリアートの鉄の規律」自体がもはや歴史の彼方へと消え去ったのです。ですから、私のようなクラシックなサヨクから見た時には、「今の共産党も規律を欠いたアナーキーな新左翼に乗っ取られたのでは?」などというヘンケンを抱くのも不思議ではないでしょう。かつては左派の政治運動は、過剰なまでに市民的なモラルに支えられてきたのですが、そのような「モラル」がこの転換の中で失われてきたのです。

さらに勢力自体も年を追うごとに退潮傾向が目立つようになりました。そうなれば左派の政治運動にリクルートされる人も減っていきます。さらに市民運動から供給される「雑多な背景の人々」が、その多様性ゆえの「力」を発揮できればいいのですが、残念ながら現実にはそんなこともありません。ただ活動家の「質の低下」を招いているだけのようにも見受けられます。このところの各種選挙の立候補者を見るにつけ、「おかしな人ばかりが立候補する…」と呆れ顔になる方が常識でさえあるのです。

「多数者革命」という言葉をかつて共産党は使いました。勤労市民層を糾合した「多数派」による社会改革を目指すという戦略自体、実は正しい戦略だったと私は思うのです。しかし社会情勢の変化により、それが階級的な利害で結ばれた一枚岩の「階級」ではなく、分散した「さまざまな貧困」を相手にしなければならなくなり、その中での共通する「利害」を調整することも実はなかなか難しいことになってもきたのです。一つ一つは弱弱しい草を集めて、一つの幹にまとめ上げることは、多大な困難を要することは説明するまでもないことでしょう。

バラモン左翼と「大衆化」

このような左派の体質変化は、たとえばピケティの「バラモン左翼」という言葉で象徴されるように、欧米でも意識的に取り上げられるようになりました。左派政党の支持者が労働者から高学歴のホワイトカラーに変化し、逆に旧来の左派の支持層だった労働者は保守を支持するように、支持層が入れ替わった現象を示します。この現象はアメリカの民主党が南部のレッドネックに支持される政党から、西海岸のヤッピーに支持される政党へ変化したこと、また現在の民主党が「目覚めた」リベラルな価値観を社会に強制するのに対し、ラストベルトの労働者が熱狂的に「アメリカ・ファースト」を呼号するトランプを支持する構図に容易に見て取られるのですが、もちろん日本でも、この現象はそれこそ欧米に先駆けて、と言っていいくらいに進行してきたのです。

まあもちろん、日本では西欧化の道程から来る「インテリが西洋からの最新思想を輸入・紹介して人々を導く」という拝外的な歪んだ図式があったこともあって、容易にこの「バラモン左翼」化が進行したという見方もできるでしょう。ですから日本は「バラモン左翼」という言葉が流行る以前から、とっくに「バラモン左翼」化していたと見るべきなのです。

このとき、「バラモン左翼」たち、高学歴のホワイトカラーであり、高収入で社会にそれなりに適応した人々が、なぜ「社会から疎外された雑多な人々と連帯しうるのか」という問題が生じるのです。このつながりは日本の「インテリ像」から非常に自然に結びつくために、改めて指摘することも自明すぎて難しいくらいなのですが、いわゆる「リベラル思想」と漠然と呼ばれるものによって、ということになるのです。

しかしこの「リベラル思想」なるもの、なかなか実体がないのですよね。それが困ったところなのです。日本だったら古典的なアジェンダで考えてみましょうか。「非武装中立論」ならどうでしょうか。

この「非武装中立論」、もともと日本社会党が唱えた国際戦略なのですが、米ソが核兵器による相互の絶滅戦争を引き起こしうる状況では、それなりの有効性があったのだと思うのです。全面核戦争が起きるなら、通常戦力での武装は無意味なのです。だからこそ、核の傘からあえて出ることを主張して、日本の立場を主張することが可能である、という戦略自体、そうまずいものでもないとも思うのです。
もちろんこの前提は冷戦の終結によって崩壊します。冷戦後の世界では、全面核戦争の脅威はさほどリアルでないのに、低烈度紛争の可能性は高まっているのです。ウクライナ戦争を大きなきっかけとして、とくに「非武装中立論」は日本国内でも強い批判を受けることになりましたが、実は国際紛争への対策としての「非武装中立論」は冷戦崩壊ですでに破綻していると見るべきなのでしょう。
しかし、逆にこの「非武装中立」はなかなか理想的であり「道徳的」なことから、支持者に自分たちが拠って立つ「モラル」を提供するのです。世界平和は崇高な理念です。戦争は悪であることは間違いがないことです。ですから、戦争を廃絶させることを第一の行動指針にすべきだ、というのは道徳的な訴えとしては、なるほど心に響くのです。
ですから、政治のリアリズムを無視するのならば、「非武装中立論」はなかなか優秀なイデオロギー(世界観)であるともいえるのです。ですから歴史的な経緯もあって、今に至るまでこの「非武装中立」が「リベラル」の心を捉えるのは、納得がいくことでもあるのです。
実は日本共産党は冷戦終了までは「中立自衛論」に立っていて、冷戦終結後に「非武装中立論」に転換しています。何か選択を誤ったような思いも個人的には持つのですが….「自衛隊を米軍の補助軍ではなく、独立した真の国民軍として再編すべきだ」という主張をしていたことを私はよく覚えていますが、この過去はどうやら抹消されてきているようです(苦笑)この「時期の一致」を深読みすれば、「プロレタリアートのモラル」の喪失を埋めるために、共産党は「非武装中立論」を採用した、とも取れなくもないのでしょうけども。

言い換えると冷戦後の「非武装中立論」というのは、現実の国家戦略とは別次元で成立する、参加者のよって立つべき「モラル」であり、まさしくイデオロギーなのです。具体的な政治状況から切り離されて、観念化された「政治」であるイデオロギーですから、これはそれ自体としては具体性がないために、「批判できない」ものになっています。それですから、実はこの「イデオロギー化」が「リベラル思想」の漠然として捉え難い特徴であると言えるのでは、とも考えるのですよ。

さらに言えば、この「バラモン左翼」はもともと、希少な情報の独占、というヒエラルキーによって実現していたものでした。しかし、海外情報を独占的に紹介しうる立場が、社会のリーダーとしての資格であった時代は過ぎ去りました。昨今の自動翻訳は海外情報のリアルタイムのキャッチアップについて、言語の壁をやすやすと乗り越えるようになってきています。今のネット社会では、「知識」や「教養」それ自体が独立した価値を持つものだとは言えなくなってきたのです。
もちろん専門職業的知識・技能はその必要性ゆえに世の中から今後とも求められましょうし、一概にAIによって「知性」「知識」が不要になるとも考えるわけではありません。それでも「知性や知識は何の役に立つのか?」という疑問に、インテリな「バラモン」たちは今後いっそう直面せざるを得なくなります。これが「大衆化」というものの本質なのです。
いわゆる「インテリ」と「それ以外」の知的能力の差が縮まった時代はかつてありません。もはや「インテリ」が大衆を説得できない場面が増えてきているのです。「知性」について世界史的な大変動とさえ呼ぶべきものが起きているわけです。「論破」ブームなんてまさにそのつまらない表れに過ぎません。

ですから、まさに「バラモン左翼」が社会へ存在意義を示すことができなくなってきているのですよ。「リベラル思想」はその名に反して「論争(論破)」可能な具体的な理論であるよりも、モラル・生き方とか態度(アティテュード)と呼ぶべき、漠然とした世界観に逃げ込むしかなくなるのです。「リベラル思想」をアティテュードの言葉として置き換えると「意識高い」になるわけですね。まさにこれは「文化」と一体化するのです。

「合い言葉」に堕落した「リベラル思想」

逆に運動論として見れば、具体的な政治コンテキストから理念を切り離し、イデオロギーにすることによって、左派の政治運動は運動としての「紐帯」を作り出している、と見ることができるのでしょう。つまり、リベラルな個人が「いる」から「リベラル思想」があるのではなくて、「リベラル思想」に賛同する人(だけ)が「リベラル」なのです。モラルが外化されて、そのモラルによって結集する。このような逆転した状況が起きているのです。

こう考えてみると、一時「市民運動のオタク化」と呼ばれた現象も、腑に落ちることでしょう。本来は具体的な弱者救済の社会運動であったはずが、自らの「モラル」を証明する運動、運動のための運動になってしまう。そしてその運動に公金が出るようになれば、その運動が利権化して止まらなくなる….このようなメカニズムが最近では世の中に晒されるようになりましたが、もともと日本では部落解放運動が利権化して大きな問題になったこともあるわけです。そして、実際には弱者の救済にはならなくなっても、「市民運動」が「リベラル思想」としてひとたび受け入れられたのならば、ずっとそれが「結集軸」として続き、多くの左派がそれに連帯し続ける….こんな構図がずっと続いていくのです。そうなれば、「リベラル思想」とはコミュニティへの参加資格を示す「合い言葉」めいたものに堕落していくのです。

私は他の記事でも明らかにしていますが、GID当事者として、自分の利害がいわゆる「LGBT運動」から無視され続けてきていることに怒り、当事者無視の「LGBT運動」批判をしているわけですけども、このLGBT運動も「リベラル思想」の一つであるがために、左派陣営からは話も聞いてもらえないのですね(苦笑)いや本当に、私たちの当事者の立場とLGBT活動家の立場と利害が違うから、私たちの声も聞いてくれ、と頼んでもまったく相手にされないのです。困ったものです。個々具体的な問題に取り組んでいるわけですから、それぞれの問題に関してはさまざまな立場があるのは当然です。私たちは「リベラルな言葉」によって語るつもりもなく、また具体的な私たちの利害と反するものであるために、「トランス女性は女性である」などという「合い言葉」を否定します。そうなると「リベラル」への参加資格をその一点で拒絶されてしまうのです(苦笑)
「合い言葉」になれば、それ自身の意味はどんどんと薄まっていきます。しかし、意味がなくなることに反比例して、反論不可能なもの・批判不可能なものに変化していってしまうのです。
ですから「リベラル思想」の中で「正統」と認められた「合い言葉」以外を語れば、別ジャンルの「リベラル活動家」からも考慮の余地なく異端として拒絶されるのです。参りますね。さまざまな運動を結集したはずの「コミュニティ」が、どんどんと単一の「リベラル思想のコミュニティ」へと純化されてしまうのです。具体的なアジェンダの問題点は大多数の参加者にはどうでもいいことになってしまい、具体的な問題解決ではなくコミュニティの内部での「参加者の自己確認」だけが重大事になってしまう転倒した状況が見て取れます。これでは対外的に対案を提起することなぞできません。

こんな具合に、たとえば入管法反対・外国人参政権・環境・LGBT・同性婚・辺野古反対・フェミニズムなどなど、さまざまなマイノリティ運動のアジェンダが、この「リベラル思想」の中で、「正統」として認められた「合い言葉」だけが「正しいリベラル」として受け入れられ、それ以外はリベラルからは「差別者!」などと悪罵を投げかけれられることになるのです…..いやはや、フェミニストの中でも「トランス女性は女性である」を受け入れられない人々を弾き出すなど、この「リベラル思想」の内部での不寛容はまさに「純化主義」にまで至っています。「すべて」か「無」か。すべてを受け入れるならば「リベラル」、一つでも異議を唱えるならば「差別者」。本当に困った状況が起きているのです。

確かに、いろいろな市民運動を糾合して一つの政治勢力にしなければならない、という事情があるのはわかります。その際に、それぞれの運動の中の多様な声をくみ上げるのではなく、「リベラル思想」への適合性が高いものだけが「正統」として受け入れられて、個々個別の運動内部での批判を封殺するという「すべてか無か」の、幅広いようで実は違う実態が、その政治的な目的を裏切ることにもなっているのです。

この都知事選での蓮舫候補が大きなミソを付けた問題として、神宮外苑再開発計画があります。「偉大なミュージシャンである坂本龍一の遺志を継いで、神宮外苑の樹木伐採に反対して緑を守ろう!」という市民運動と連帯したことが、蓮舫候補に対する強い批判を招いてしまったのでしたね。この再開発計画の主体は民間であって都が口出しするのも法的な根拠がないことや、樹齢百年の老木の伐採がなく自然環境保護の視点でも十分合格点を与えられる計画であることなどが、報道を通じて明らかになってきましたが、蓮舫候補はこのような批判にはまったく答えることができずに、「都知事になったら都民投票をする」という強弁に近い公約を追加するというムーブが強く批判されたことは皆さまも御存じでしょう。

まあ確かに、この市民グループの応援を陣営として受け入れてしまった以上、選挙戦の中で「支持者を切る」わけにはいかないのはわかります。しかしこれも「左翼系知識人である坂本龍一」「環境保護」「商業的な再開発反対」という「リベラル思想」へのマッチ度が高すぎるアジェンダに対して、その実質内容を問わずに連帯してしまうのです。無責任と言えば、大変無責任なことです。「神宮の森を守れ」は現実の再開発計画とは無関係なところでイデオロギー化され、そのイデオロギーに沿わなければ、「合い言葉」を口にしなければ、「仲間」ではないのです。
このところの左派が支持する「市民運動」はよくネットで「イツメン(いつものメンバー)」と揶揄されるように、さまざまな個別の市民運動であるにもかかわらず、それに「連帯する」メンバーが同一すぎる…という問題があります。このような人的紐帯・人員の重複が、市民運動の中で非公式でも重要なファクターになるのは判りますが、人的リソースに主張内容が左右されすぎる、という弊害もまた露になったことでもあるのです。

市民運動だからと言って、その活動が正しいとは限りません。これは当たり前のことなのですが、人的なつながりによってこれが一旦「リベラルの正統教義」「合い言葉」に採用されてしまうと、内部で批判することもできなくなるのです….

まさに、タコツボ。こんな「イツメン」なプロ市民によってどんどんと「市民運動」はやせ細っていくのです。

それでもサヨクは気持ちいい

このように現象を見てくると、蓮舫の選挙運動がいかに間違った戦略に基づいていたかがよく分かることでしょう。しかし、渋谷での蓮舫陣営のダンス街宣パーティは盛り上がりましたね。そしてそのパーティで盛り上がった支持者たちは「Rシール」を配られて、それを街角に貼りました。
さらに言えば、選挙活動をしてはいけない投票日に、蓮舫陣営の支持者たちは「ほうれん草」の写真をSNSにアップすることで、違反行為をこれみよがしに無視したりもしたのですよ。

もちろんこのような「脱法行為」は政治のモラルに反したことです。クラシックなサヨクならば、こういう行為を厳しくたしなめるのは当然だったのですが、今はそんな「固い」ことをいう人もいないようなのですね。こういうあたりにも「左派の作風」の崩壊が現れています。

いや私は渋谷のダンス街宣パーティはきっとすごく盛り上がったのだと推察するのですよ。蓮舫候補者自身、感動したのはまさに本心だと思います。まあ「歌って踊って楽しい民青」とか揶揄するのは止めておきますが、このような「コミュニティ」の活動を通じて、参加者の「自己確認」が行われ、それに参加者は感動し満足するのです。

私が指摘したいは、このような蓮舫候補の選挙活動が、いわゆる「政治活動」からいつの間にか逸脱してしまい「文化活動」と呼ぶべきものに変化してしまった、ということなのです。政治活動は「市民の利害」に基づいて判断されるべきものです。利害関係に変化があれば政治的立場が変わるのは当たり前のことですし、それは背教でも裏切りでもないのです。しかし、「リベラル思想」に基づく「文化」は、好きか、嫌いか、コミュニティに参加するか、しないかだけを問うのです。
そりゃ、たとえばあるアイドルを理屈で批判するのは難しいですが、好きか嫌いかは誰でも言えます。蓮舫の選挙活動は、比喩ではなく「推し活」になったのです。だから、その「文化」が好きな人は、蓮舫のパーティに大盛り上がりだったでしょう。自分が全面的に受け入れられる「素敵な体験」だったのでしょうからね。それをダメだ、という考えは私にはないのです。ただ、それは「政治」ではないのです。だからこそ、「リベラル思想」が好きで「合い言葉」という魔法のチケットを持った人たちがこのパーティで盛り上がれば盛り上がるほど、この「合い言葉」を口にせずに「文化」に好意を持たない人たちは、蓮舫という候補を敬遠することになるのです。

そして、この「文化」には、アメリカのBLMへの共感・憧れといった色彩もありますから、アメリカのストリートカルチャーを引用したくなるのですよ。だからこそ、「Rシール」のような「文化摩擦」の問題を平気で起こすことになるのです。これはあるカルチャーにアイデンティファイした人々が、自らを他の人々と「差別化」したいと感じる、「特別な」カルチャーへの帰属感の表明だからこそ、選挙違反や軽犯罪であるかもしれなくても、あえて行ってしまうのでしょう。

政治運動としての実効性を軽々と放り投げてしまうような、カルチャーへの帰属感をアピールする「活動」を全面的に肯定したのが、蓮舫陣営の「選挙活動」だったというべきなのです。かつての左派の「モラル」は外に向いていたからこそ、その過度な道徳性や小市民性を笑われこそすれ、自己中心ではなかったのです。この「モラル」が完全に内向きになってしまったから、これほどに社会との摩擦を引き起こす「カルチャー」になり果てたのでしょう。まさにその「文化」が原因となって現実政治である投票の結果によってしっぺい返しを喰らった、これが都知事選の「教訓」なのです。

結論:我ら「共産趣味者」

私は年寄りですから、かつての左翼運動を回顧してネタにして(自虐的に)笑うのも好きなのです。いやこういう「カルチャーとしてサヨクを楽しむ」ことを「共産趣味」と呼ぶのはご存じでないでしょうか?

いやですから「共産趣味」は不真面目です。レトロでキッチュな「趣味」であり、ネタ消費の一つですから、マジになられても困るのです。

ですから逆に「共産趣味」は「リベラル思想」への解毒剤でもあります。かつての左派のダメな部分の反省、そして今の「リベラル」のダメさ加減をそれぞれ噛み分けて、「文化」への批判的な視点を維持する試みでもあるのです。本当は「リベラル」は無自覚の「共産趣味者」に過ぎないのであり、この小論は私のような「自覚的な共産趣味者」がその欺瞞を指摘しているだけなのかもしれませんが。

おそらく、「社会正義はいつも正しい」が指摘したように、社会正義はすでに問題が解決されているから、(解決不能な)疑似問題を提出して「正義」を継続する試みだ、と捉えるのも正しいのでしょう。しかし、今この「リベラル思想」の害悪が、自浄作用が働かないものであることが明らかになったこともあり、どうにか解体しなければならない、という瀬戸際に来ているのも明らかなのです。

第二次大戦後の政治状況というのは、左派の(具体的)主張が社会に受け入れられていくプロセスであるのと同時に、世界的な(政治的な)左派の没落現象でもあるのです。左派の政治勢力は崩壊過程にあり、影響力をなくしていく最終的な段階が今の「リベラル」なのだと私は捉えています。その崩壊プロセスの中で、左派の「よきもの」を一緒に没落させるには忍びないという気持ちは、私にはあるのです。

「文化」が正しいものであるのか、健康なものであるのか、はひとえに私たち自身の力量に関わっています。左派の政治運動の業績を私は率直に認めます。しかし、もうその歴史的使命は終わっているのです。終わっているものをしっかりと終わらせることによって、おかしな「文化」に対して冷静になり、その弊害をなくすように、個別の戦いを繰り広げるしかないのでしょう。

補論:トランプ暗殺未遂とリベラルの反応

学生時代に、対立党派のキャップに位置する活動家が、事故によって突然亡くなりました。本当に優れた活動家であり、私たちの党派からみればまさに「目の上のタンコブ」と呼ぶべき存在でした….

私たちは緊急招集を受けました。

「真面目に追悼しろ。絶対にその死を喜ぶ様子を見せてはならない!」

こう厳命されたのです。緊急にその死を悼む私たちの立て看板が作られて、出されましたし、私たちもこの厳命に従ったのです。まさにこれが「政治」なんだ、と納得したものです。

安倍晋三元首相の暗殺の時もそうでしたが、左派・リベラルがその死を喜ぶかのような反応を見せたことは、私には大変見苦しいことだと感じましたし、今回のトランプの死を願うかのようなアメリカのリベラルの反応も同断です。まさにこれは「政治的な態度」ではありませんし、「党派的な態度」でもないのです。

政治・党派といったものが、いつしかモラルを欠いたものになっていることを私は強く悲しみます。


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