カリフィア「セックス・チェンジズ」

この書評シリーズを始めたときに、カリフィアのこの本と、バトラーの「ジェンダー・トラブル」を取り上げるのを目標にしていました。ようやく「セックス・チェンジズ」を読了して書評出来るのがうれしいです...

いやさすがに凄い本です。トランスジェンダーの歴史を包括的に紹介かつ論評した本として、議論の基礎になる「基本書」としての資格があります。このところとくに目立つ TS/GID派とTG/クィア派との対立もしっかり指摘しているだけでなく、当事者ナラティヴのはらむいろいろな問題点も直視し、多様な立場を自身の経歴によっても補強しつつ、公正さに重点をおいて解説しています。
本当に凄いな...と思わせるのは、第三章「バックラッシュ」の終盤で、カリフィア自身の分離主義的フェミニスト時代に「トランスセクシャル帝国」のトランス排除の風潮が広まって、この影響をうけつつトランス差別に手を貸して、それに罪悪感を感じたことを率直に告白しています。これは感動的です。
それと第六章の「見えないジェンダー・アウトロー」として、TSパートナーの独自の立場を考察した部分。これは画期的です。素晴らしい。もちろん、カリフィア自身が「ブッチ・フェム」的なレズビアン・コミュニティ出身で、これを知悉しているがゆえに、ブッチなレズビアンがトランスした場合に、フェムなパートナーがどうそれを受け入れるか?あるいは受け入れられないか、が大きな問題になるのは、カリフィア自身が体験したことでもあるでしょう。

関係が、その分類をレズビアンからヘテロセクシュアルへと変えることは、非トランスセクシュアルのパートナーにとって、さらなるストレス源になり得る。例えば、レズビアンの関係がもたらすものの一つに、女性身体の価値と尊さを確かなものにする、ということがある。だがFtMたちは自身の女性的形態を拒絶する。かつてレズビアンに同一化(アイデンティファイ)していたトランスセクシュアル男性の女性パートナーたちは、これによりしばしば悪影響を受けてしまう、と訴えている。ホルモンや美容外科手術によってトランスセクシュアル男性は自分の身体と心地よくやれるようになるが、この身体変化が、女性パートナーの身体イメージに否定的なインパクトを与えかねないのだ。

だからこそ、TSを「あえて」好むパートナーが、それ自身「見えないジェンダー・アウトロー」として問題化されるわけです。TSパートナーがそれ自体性指向の上での「セクシャル・マイノリティ」として捉えられるべきだ、という主張につながります。
しかし....あえて言いますが、このカリフィアの正しい指摘の裏には、MtFを「あえて」選択する男性、いわゆる「トラニーチェイサー」の存在もあります。女装しないのに女装クラブに出没したり、ニューハーフを好んで「買う」オトコのことですね。やはりカリフィア自身、この方面には暗いわけで、記述は本当におざなりです。仕方のないことなのですが...

人はいつも自分を語る


いやね、やはりこの網羅的に見える労作であっても、「自分の体験によって、内容が偏り、あるいは妙な先入観で判断する」というのは、さすがに避けがたいことでもあります。一番それを感じるのは、MtFがSRSによって、性的に満足するか?という問題です。SRSの「有効性」を「性的な満足が得られるか」という基準で評価しようという視点です。FtM であるカリフィアにとって、不満なことはもちろんわかります。現状でも FtM の男性器形成手術は、とてもじゃないけども性的満足を得るためには不十分なものでしかありません。しかも高価なうえ手術結果も安定しない、リスクばかり高い手術でもあります。この前提でカリフィアは MtF の SRS を評価しようとしますが....評価が辛すぎますね。実際、「ヨくなかったら、SRSなんてしませんよ」と豪語する MtF もいるくらいで、MtF の場合には、性の満足感はかなり高め、というのが私の見聞する限りの意見です。決して、医療機関向けのリップサービスではありませんよ。さらに言うと、FtM の場合には、投与される男性ホルモンの影響で、性欲が昂進します。逆に MtF の場合には、女性ホルモンの影響もありますし、また、そもそも私みたいなアセクシャル傾向が強いケースもあって、「性による満足」の重要性はカリフィアが思うほどに高くはないでしょう。いや、MtF のアセクシャル傾向は、単に古典症例の模倣、というわけではないです。やはり、性欲を司る脳の機能の一部が発達せずに...というような原因も想定できるのでしょうね。

とはいえ、このカリフィア自身が図らずも示してしまった「自己の体験によって、トランスを推し量り評価しようとする傾向」は、カリフィア自身が本書で繰り返し批判する「病理化(医療者)」「トランス排除(フェミニズム)」「ベルダーシュ戦争(ゲイ)」で、幾度となく現れた課題でもあります。MtF と FtM の間でさえ「トランス」という現象の評価が、割れるのも当然ではあるわけです。

いやいや、本書、大変重要で、今に至るまで全く古びない名著、しかもほぼ網羅的にトランスの問題を取り上げた「地図」なのですが、それでもやはり、カリフィア自身の経験による至らない部分や、次項で主に取り上げるアメリカの運動と日本の運動の差異からくる違いなど、そのまま真に受けてしまうと困る話も少しはあります。とくにフェミの方々が本書をそのまま真に受けて「トランスジェンダーと連帯する」とかされると、面倒だな、と思う部分もないわけでもないです。

やはり一番気になるのは、ジョーゲンセンやモリスのような「古典症例」を、医療に対する迎合の結果、というニュアンスで事実かどうか疑っているあたりです....いや、やはり小児の性同一性障害、というのは実在しますし、私の実感としても単に「医療に対する迎合」というわけでもありません。もちろん、大人になってから初めて「自分が異性だった」と気づいてトランスするケースを否定するわけではありませんよ。しかし「トランスの多様性」を謳いながら古典症例を否定するのはダブルスタンダード以外のなにものでもありませんよ。もちろん、

人は女に生まれるのではない、女になるのだ

のフェミのテーゼと「古典症例」の相性が悪いこともあって、これを否定したがる...なら、やはり「トランスを自分の気に入るように恣意的に利用する」という懸念を感じる部分であります。

日本の状況・アメリカの状況

いうまでもないことですが、日本の性転換「医療」は、諸外国と比較してかなり遅れて始まりました。ですから、「トランスの問題」も、実のところ「アメリカの状況が、成熟して煮詰まった結論」をそのまま導入したような面を否定できないです。

(「トランスセクシャル帝国」の影響で)皮肉なことだが、トランスジェンダー女性を女性として受け入れることを拒み、追放しようとしたレズビアン・フェミニストによって、姿を消すくらいなら何でもするといった断固たるトランスジェンダー女性の一世代が作られたのである。

というような経験は、日本ではまったくありませんでした。初期からフェミニズムもトランスに好意的でしたから、これをラッキーと捉えるべきなんでしょうね。なので、このカリフィアが記述するトランスジェンダーと他のLGBT運動との関連は、言うまでもなくアメリカ限定の状況を述べたものです。また、医療もアメリカの「確立された標準」を導入したもので、

ジェンダー違和と診断されながら、なんらかの理由で性別適合が必要と見なされない人の数が増えている。ジェンダー・アイデンティティのプログラムが志願者を断るのには、次のような多くの理由があり得る。年齢、精神疾患の既往歴、ホモセクシュアリティ、フェティシズム、サドマゾヒズム、犯罪歴、ホルモンに耐える能力がない、癌の既往歴、希望のジェンダーの一員としてパスできないと外科医に判断される顔や身体であること、貧困、セックス産業で働いていること、女らしい女性や男らしい男性になろうとしないこと、自己主張が強いこと。


.....いやいや、日本のジェンクリの診断基準は、どっちかいえばザルすぎて「したいのに認められない」人よりも、「した後で後悔する」人の方が多いのが現状です。

ユダヤ=キリスト教風土がない日本では、トランス排除の宗教的理由付けを欠くこともあって、寛容な部分があることは率直に認めなくてはならないでしょう。トランスへの差別はあっても、ヘイトで殺されることはありません。第7章で記述されるブランドン・ティーナ殺害事件のように、アメリカでは宗教が後押しするような差別感で人殺しする連中がいるわけですからね....それに対抗可能な「反差別運動」が要求されるのも、もっともな話です。

そうしてみると、日本のトランス運動というのは、順風満帆とはいきませんし、積み残しの課題も数々ありますが、アメリカのような苛烈な経験はしていません。ですから、彼我の体験の差異の部分も大きいわけですが、この本できっちり(批判的に)紹介されたジェンダー抹消派とでもいうべきケイト・ボーンスタインの主張というのも、今思って見ると特例法反対に動いたクィア派の言動そのままですね....アマゾン見るとクィア派の筒井真樹子氏が訳した「隠されたジェンダー」が訳書でありますね。

わたしは、トランスセクシュアルというラベルを、ただ与えられたジェンダーに不満で、それを変える行動をとった、という意味にとる。私は好んでトランスセクシュアルになっているのであり、決して病理上の理由からではない。(ボーンスタインからの引用)

「伊達や酔狂でトランスする」というのが、クィア派の真骨頂なのでしょうが、

「トランスセクシャルとは誰か?」という質問に対する答えの一つは「そうだと認める者のことである」というのはもっともだ。より政治的な答えはこうなるだろう。「その者がジェンダーを演じることで、ジェンダーの構築に疑問が付される者のことである」(ボーンスタインからの引用)

とまで来ると、私みたいな完パスの TS/GID 系は、完全にトランスセクシュアルから除外される結論になります。それがお望みなら、まあそれでも、いいや。別に政治運動するためにトランスしたわけでもありませんしね。カリフィアもこのボーンスタインの議論を矛盾している、として却下していますが、カリフィア自身のかつての論述にボーンスタインが影響を受けているのを認めたうえで、「ボーンスタインの勇気とガッツを批判できない」と「理論には賛同できないが...」と妙に好意的なあたりが気にはなります。

彼女がトランスフォビックなフェミニスト、ジャニス・レイモンドの姿勢に共鳴していると見られる心配もある

彼または彼女の希望の性の一員として、完璧にパスしているトランスセクシュアルたちにその資格(ボーンスタインが主張するジェンダーの「第三極」)が与えられることは困難だ。

とこのボーンスタインの議論が本質的に分裂主義的なものだとしています。実際カリフィアのトランスとしての立場から見ると、もちろんこのボーンスタインの議論を認めるわけにもいかないでしょうし、またジェンダーの「第三極」はあくまで空想的なもののようにしか思われないです。

特例法の頃に、大島俊之先生がこうこぼしていたのを記憶していますよ。

(特例法に反対するクィア派は)法律で解決できないことを、法律で解決できないからと、法律を非難している...

いやこのボーンスタインの議論に、一部のフェミニストやゲイ団体が共感しているとすれば、大変問題だと思います。実際、TS/GID 派の現実とも利害を否定するような議論ですからね。

ヘテロセクシュアルに同一化(アイデンティファイ)しているトランスジェンダーの男女ですら、他のどこよりも容認や支持が見出せるという単純な理由から、しばしばクィア・コミュニティに仲間入りする方を選ぶ。さらにこういう事実がある。ホルモン投与や手術、発声練習や電気分解脱毛、ボディビルやタトゥーを経ても、トランスジェンダーのいくらかは選択したジェンダーで「パス」できない。こうした人々は活動家(アクティヴィスト)になるか、自滅するしかない。

確かにこの二派の対立は、アメリカでももちろん、日本でも「利害」の対立として顕在化しているようにも感じます。実際、カリフィアも当然ながら、医療的ケアをその本質として要求するTSに向かって、「脱医療化」を勧めるのは、医療ケアに対する健康保険の支払いを阻害する悪影響があることを認めていますし、

(「脱医療化」を求める活動家たちは、)精神障害と診断されてきたスティグマから解放されたいという欲望は理解できる。しかし、トランスセクシュアルが性転換手術を受け続けようとするなら、ホルモンを処方する医者や手術をする外科医には、どんな正当性があるのだろうか。内科医は、トランスセクシュアリティは遺伝的機能障害か胎児ホルモンのアンバランスの結果であるという確固たる証拠を認めるかもしれないが、トランスセクシュアリティの生物学的根拠の可能性を探る研究は希薄だ。性同一性障害をDSM-Ⅳから切り離そうとするトランス活動家(アクティヴィスト)らは、性別適合に必要な診断の代りになる確固たる何かをまるで考えだしていない。医者たちに、性転換手術を受けられ続けるように保証するように嘆願してもいない。ほとんどの手術前のトランスセクシュアルは、性別適合を切望し、どんな種類のものであれ通常の生活を送るためには、まずこれが必要だと考えている(まったく当然だ)。トランス活動家(アクティヴィスト)らは、彼らのイデオロギーを論理的不条理までもっていってしまい、自身のコミュニティの大多数を窮地に捨て置いてしまう可能性がある。

と、カリフィアは医療主義に懐疑を示しながらも、具体的な対案がない以上は、現状に医療の枠組みを維持せざるをえない、という結論になっています。でもね、まさに今こんな現象が、日本でも起きてしまっているわけです....SRSの美容手術化ならそれでもよろしい。健保適用は絶対ムリで、お金があれば、手術できますよ! あと自己責任ですからね、ホルモンバランスが崩れても自分でなんとかしてね! こんな世界、望んでますか? やはり現状で医療化はマイナスの面よりも、プラスの面が勝っているように私は考えています。(ちなみに、アメリカは健康保険で出産が賄えるのですね...日本は厳格で、出産は正常な生理現象なので、健保は適用されません。脱医療化されたSRSにおいてをや、です)

アイデンティティとは?



このように本当に「論点だらけ」で大変刺激的なカリフィアのこの本ですが、私が少し気が付いたことを指摘します。

「アイデンティティ」と「ジェンダー・アイデンティティ」の問題です。カリフィアのこの本では、基本的に「アイデンティティ」の話をしています。「アイデンティティ」ですから、たとえば「ゲイ」も「ブッチ・レズビアン」もアイデンティティになりますし、果ては「TSパートナー」だって、なるでしょう。いわゆる「性自認」「性役割」「性指向」のこの三つ組の組み合わせがカリフィアが指す「アイデンティティ」を形作る要因になるわけで、この面でカリフィアは一貫しています。言い換えると、「アイデンティティ」は「文化(サブカルチャー)」そのものです。

実際「トランスジェンダーの文化は、あるか?」というのは、事実上アメリカの「反差別」の運動の中で、「差別に対抗するために、運動として作られた文化」という意味では、あるのかもしれません。しかし、TS/GID の場合には「男性/女性にアイデンティファイする」と繰り返して表現しているように、「トランスジェンダーとしてのアイデンティティ」は、運動論として問う必要はない、とも言えるでしょうし、また、「アイデンティティ」を「女性」で「トランスジェンダー」で「アセクシャル」で、というように複数持つことだって、排除すべきではないでしょう。

つまり、「アイデンティティ」という言葉は、単なる「どの文化に所属するか、の自意識」に過ぎないわけです。実際、カリフィアは「ブッチ・レズビアン」から「トランスジェンダー」にアイデンティティを「変更」しましたしね。その反面、カリフィアが本書で「ジェンダー・アイデンティティ」と名指す場合には、「男性のジェンダー・アイデンティティ」というように、「男/女のアイデンティティ」、いわゆる「性自認」を指すものとして区別している印象を受けています。
いやこのカリフィアの議論というか、用語法は私は大賛成です。これを個人の視点から見直せば、

アイデンティティを選択し、変更するのも、自由であるし、逆に一つのアイデンティティに忠誠を尽くす必要も、ない

ということにもなります。いや、セクシャル・マイノリティの運動、こうはなりませんか? どうも皆さん、「アイデンティティを愛しすぎて」いませんか?

で、気になるのはこの本を翻訳した石倉由氏が、

ジェンダー・アイデンティティとは、あらゆる諸事項から独立して半先天的に植え付けられたものではなく、場合によっては自ら創造し変化するものだ。あるいは、そもそも、「ジェンダー・アイデンティティ」などという概念自体、他との関係から後付けで決定される虚像に過ぎない。

とカリフィアの「アイデンティティ」と「性自認(ジェンダー・アイデンティティ)」をわざと混同しているように見受けられるのです。私は思うのですが、そもそも「性自認」は、

SRSを正当化するために導入された、人格のコア部分での変更不可能な「心の性別」

という特殊な用語だと思っています。実際、これが「実在する」のは、SRSで証明するしかないのでしょう。石倉氏がおそらくわざと混同して「ジェンダー・アイデンティティ」を「虚像」呼ばわりするのは、SRSを否定するクィア派寄りの所説を持っているようにも見受けられます。カリフィア自身、SRS を受けているわけですし、その成果に失望する部分はあっても、SRS を要求する TS系の心情は、きっちり理解しています。石倉氏が「第三極」を妙に持ち上げるのに反して、カリフィアはどっちかいうと「第三極」理論の矛盾や現実離れに、呆れているようにも私は読みましたがね....あと、訳文は生硬で、カリフィアが反語的に諧謔を飛ばしているような個所もキマジメに訳していて、一見矛盾した論旨に見えるようなところが散見されます。もう少しニュアンスの汲める上手な方に訳してもらいたいですね。

急進的なフェミ活動家が、トランスジェンダーを誤解して「同盟軍」にしたがり、利用したがるのは分からないでもないですが、贔屓の贔屓倒しにならないようにして欲しいです....竹村和子氏の小文「「セックス・チェンジズ」は性転換でも、性別適合でもない」が、妙にロマン的なトランスジェンダー像を要求しているようにも思われます。トランスだと「アクティヴィスト」にならなければ、いけないのでしょうかね....

誰もかれも、トランスジェンダーを自分の都合のいいように、利用したがるわけです。

だったらね、私だって、自分の好きなように「トランスジェンダー」を利用させて、いただくことにしましょうか。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?