本の話

本の虫。

小学校低学年の頃から母にそう呼ばれていた。

登下校中の道すがら本を読みながら歩いていた。

夢中になりすぎて電信柱に頭をぶつけた。

二宮金次郎像のような小学生だった。

きっかけは赤川次郎。

学校の図書室にある赤川作品を全て読み漁った。

今でこそ好きなジャンルは推理小説にとどまらなくなったが、当時は探偵ものが大好きだった。

私の父は相当な読書家だった。

母からしばきまわされることが教育だった我が家では、父親っ子になるのは当然の流れであり、読書をしている父と過ごす時間は至福だった。

初めて父に買ってもらった本が萩原浩の『ママの機関銃』という本だ。

確か小学校2年生だったと思う。

思い返せばマセガキだった。

父はそんな私に大人の本をたくさん買ってくれた。

母は絵本や童話など子供向けの本ばかりを買い与えたが、変に大人びていた私はそれが物足りなかった。

読み仮名のふっていない、活字ばかりの本を早く読めるようになりたくて、国語辞典を片手に必死に言葉の意味を調べた。

国語の英才教育だ。

でも不思議と嫌な記憶はない。

むしろ焦りにも似た充実感を感じていたように思う。

学校の授業は退屈だった。

習っていない漢字を書くと先生に怒られた。

それでも国語の成績だけは常にトップだった。

成長するにつれて読書をする時間よりも、やんちゃくちゃな友達と過ごす時間のほうが多くなった。

周りの友達に読書が好きと言うと驚かれた。

この頃から見た目と中身の乖離に悩んでいた気がする。

そんな悩みを払拭するため、私は本を読まなくなった。

大学を中退して、荒んだ精神状態の時に、何気なく入った本屋で久しぶりに赤川次郎の本を立ち読みした。

懐かしさと同時に、今の私には面白いと感じられなかった。

本との出会いは運命だと思う。

その時の自分の環境、精神状態、年齢、自覚しているセクシャリティ。

色々な要素が噛み合って本の嗜好が決まる。

唯一、本の話ができる先輩がこんなことを言っていた。

「本棚を他人に見られるのが恥ずかしい。」

すごくよくわかる。

私が毎回本にカバーをかけるのはそれが理由だった。

やましい本を読んでいるから隠したいわけではない。

“あーこの人はこんなことを考えているのね”と思われるのがいたたまれないのだ。

他人はそこまで自分のことを見ていないだろう。

私の中にある思春期の自意識がそれを拒むのだ。

大人になった今、周りを見てみると読書をする人はすごく少ないと思う。

社会人になればビジネス書こそ読むかもしれないが、小説を買って読む大人はそこまで多くない気がする。

私は一周回って、小説もビジネス書もなんでもかんでも読み漁る雑食と化したが、どんな本を読んでも学びがある。

活字離れが問題視されている昨今だが、未だに紙媒体で活字を欲している人間がいるわけで。

雑誌社、編集社にエールを送る今日この頃である。




サポートってなぁに? お金くれるの? えー好きぃ。 モー子に貢いでも小説かライブかゲームの課金にしか使わないけどそれでもいい?