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自己の意識が生み出す境界〜社会変革と個人変容の探究①〜

2ヶ月ぶりのnote。今年の春は良い意味で自分の殻に閉じこもり、内省を繰り返していました。そして、自分の本当に発信したいことは何かがどんどんクリアになってきたので、久々に書こうと思います✍️テーマは大きく、「社会変革と個人変容の探究」です。

「脱資本主義論」の加速

最近よく「人新世」という言葉が聞かれるかと思います。人新世とは、ノーベル化学賞受賞者のドイツ人化学者パウル・クルッツェン氏によって考案された「人類の時代」という意味の新しい時代区分。人類が地球の生態系や気候に大きな影響を及ぼすようになった時代と言われています。

そして、この言葉とセットでよく出てくるのが「資本主義」。大量生産システムと噛み合わせの良い資本主義という増欲的なイデオロギーによって、環境破壊や人権侵害など様々な社会問題が引き起こされている…というような文脈で出てきますよね。

となると、そうした問題を解決するには「資本主義」ではない場所、つまり「脱資本主義」に向けて動くことが重要だ、という声もあるかと思います。

自己の意識が生み出す「境界」

自分自身、「脱資本主義」の世界はどんなものなのか気になりますが、最近もっと気になるのが、「脱」を境にした二項対立です。

そもそも、「脱〇〇」という言葉は「〇〇」という存在無しでは意味を成しません。「脱資本主義」に関すると、常に「資本主義」を意識することになる。新しい概念ではなく、旧来の物に対する「アンチテーゼ」という形で機能する言葉ですよね。

アンチテーゼというのは厄介な側面もあり、「対立構造」も生む。結局、資本主義という言葉が内包される「前時代」を壊し、脱資本主義という「新時代」を確立させる、という二項対立が顕れるように思います。

「資本主義」はかなりマクロな例ですが、二項対立は私たちの身の回りで起こっています。昨今、環境問題やジェンダー問題など、様々な社会課題に対する抗議活動がされていますよね。これも、「抗議する者」と「抗議される者」の二項対立と言えます。

現状に対して声を上げることの重要性は身に染みて分かります。過去の人々が主張してきたからこそ、今私たちは変わりゆく時代の中で生きることができています。しかしそれと同時に、果たしてこれは本当に根本的に「社会」を変えるのか?という思いも残ります。抗議する形でしか、社会変革は果たされないのか。他に方法があるとしたら、それは何なのか。そういった、広義の「社会変革」の形に関心を持つようになってきました。

その中で私がハッとしたものが、思想家でありトランスパーソナル心理学の代表的な理論家であるケン・ウィルバー氏の「無境界」という本の言葉です。

内なる真の自己は実際には外の現実の世界であり、その逆もいえることがわかったからである。主体と客体、内と外は、いまも、またこれまでも、つねに一つであった。世界はわたしの身体であり、見ていいるわたしが見られているものなのだ。(ケン・ウィルバー「無境界」)

社会変革は個人変容と表裏一体だということ。

まさに、自分の意識が様々な「境界」をつくる。だからこそ、自分が感覚的に受け入れられるものと拒否するものの間に対立が生まれてしまう。この言葉から、そう思うようになりました。

個人の意識と社会変革

「他者の意識・行動を変える」という外発的な変容ではなく、「自分の意識の矛先を変える」という個人基点の内発的な変容を目指すというのは、「抗議」とはまた違う、一つの自己表現であるはずです。

私自身も、エシカルファッションを知りたての頃は、脱ファストファッション、脱大量生産、など「脱〇〇」の思考に嵌っていました。でも、それと同時にどんどん自分が苦しくなるのも感じてきました。なぜかというと、私自身は既に大量生産を基盤とする社会の中にあり、そこで生かされている。そして、その基盤自体を拒否することは、まわり回って自分を否定するような感覚を覚えたからです。

そもそも今見ている情報が確かなものかも分からないのに、何をもって「エシカル(倫理的)」と言えるのか?

加えて、エシカル自体が無意識に社会貢献指標のように機能してしまい、それらに従って物事を判断してしまう。これは、生活する中で心苦しくなっても仕方ない…

そういった個人的な流れも相まって、あらためて「エシカル」を二項対立の世界から引き離し、本当に自分がポジティブに満たされる道を模索しているわけなのです。

大量生産システム自体を変えるのではなく、脈々と受け継がれる手仕事や伝統技術に目を向け、その文化を発信していく。まさに、可視化できる河の流れに乗るのではなく、芋づる式に連鎖する文化の水脈を探るという感覚。そして、その水脈に辿り着いた先に、真に心から腑に落ちる「エシカル」の形が見えてくるはず。(ここからだいぶ話が長くなるので、「日本発サステナビリティ」についてはまだ別の機会に✍️)

話を戻すと、ケン・ウィルバー氏が記しているように、自己の内面と社会の姿というのはとても呼応していると思います。やはり、自分が苦しい時は、ネガティブなトピックを吸収しやすくなるし、社会全体が暗く見える。

しかし、それは社会の側面の一つでしかなく、自分の気持ち次第で如何様にもポジティブでワクワクする道筋を見出すことはできると思っています。

だからこそ、「いかに内面をポジティブに整えるか」というのは「社会をどう前向きにしていくか」とイコールだと思うのです。そんなことを思いながら、探究の日々は続きます!