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飛行機の時間ギリギリのニューヨークで、アイドルの名前を叫ぶ


わたしは焦っていた。ほんとうに、むちゃくちゃ焦っていた。


2019年4月8日、私はアメリカのニューヨークにいた。3泊5日の旅の、その日は帰国日だった。
わたしと同行者のSさんは、昼からあるイベントに参加していた。
このニューヨーク旅行と、そのイベントで起きたことは間違いなくわたしの人生の五指に入るほどテンションが上がった出来事だったのだけど、ここでは大幅に割愛する。

わたしたちがイベント会場を出たのは、15時の少し前だった。前述のとおりその日は帰国日で、わたしたちは、18時の飛行機に乗って日本に帰らなければならない。
そのイベント会場は海の隣で、遠くに自由の女神が見える。会場から空港まで、タクシーで1時間弱。あんまり余裕はないが、それでも十分間に合う。

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間に合うはずだった。

タクシー配車アプリ『Uber』を、ニューヨークで使うために日本でダウンロードしていった。
街中で初めて使ったときは、本当にこんなんでタクシーが呼べるのかとドキドキしたが、5分くらいですぐに来てくれた。行き先もアプリで指定できるし、事前にわかる代金もキャッシュレスで払える。ずいぶん便利なそのアプリで、空港までのタクシーの手配もするはずだった。

アプリの画面を見ていたSさんが、わたしに向かって言った。

「Uberで…今からタクシー来るの…1時間後だっていってます……」


なに?

なんて???


イベント会場は海の隣で、遠くに自由の女神が見える。私は旅行後の今になってもニューヨークの地理に明るくないが、自由の女神が見える海の隣の会場というのは、地図で言うとここである。

つまり、ええと、離れているのだ。街中から。タイムズスクエアとかセントラルパークとかエンパイアステートビルとか、おそらく「ニューヨーク」と聞いてイメージする風景の場所から離れていて、それはどういうことかというと。

タクシーが走ってないのである。

Uberというアプリは自分がいまいる場所からいちばん近くにいる登録タクシーを指定して来てもらう。あたり前のことだけど、現在地の周辺にタクシーがいなければ、来ない。来ないっていうか来るのは遅くなる。
Uberに登録してるタクシーがニューヨーク中の何分の何かは知らないけれど、ともかく、現在地を表示しても、周辺に登録タクシーのアイコンはまったく見当たらない。

わたしは勘違いをしていた。ニューヨークだもの、タクシーなんてそのへんをいくらでも走っているでしょうよ。でもそうじゃなかった。東京のすべての街が大都会ではないように、ニューヨークのすべての街も大都会なわけではなかったのだ。


いや、普通にパニックだわ。

わたしはまったく旅慣れていない。海外旅行なんて、社員旅行の団体ツアーしか経験がないのだ。一緒に旅したSさんは、今回の旅行のためにパスポートを取ったほどだ。初めての海外。空港の入国審査を通るだけでドキドキだった。そしてふたりとも、英語はまったく話せない。最終日の今日まで、事前の下調べとGoogle翻訳と身ぶり手ぶりでなんとかやってこれたのは、ほとんど奇跡に近い。

言葉も通じない知らない街で、予定していたタクシーに乗れない。
帰りの飛行機まで、時間がない。
パニックになるのもご理解いただけると思う。


予定していた飛行機に乗れないと、どうなるだろうか?

めちゃくちゃ金がかかるのだ。
わたしは身をもって知っていた。
2019年1月。けっこう直近だ。北海道旅行で乗るはずだった飛行機に寝坊が原因で乗り遅れ、次の便に振り替えてもらうのに、正規の値段で27,000円かかった。格安ツアーのツアー代金より高くついた。

格安航空会社の国内便でも27,000円。
ANAの、ニューヨーク ー 羽田便。
いくらかかるのか想像しただけで血の気が引いた。


「最寄り駅まで行きましょう」

ほとんど泣きそうになっているわたしを尻目に、Sさんは持ち前の切り替えの早さを発揮していた。
「とりあえず、最寄り駅まで行きましょう!」

イベント会場はとても辺鄙なところだったから、最寄り駅までの交通手段も少ない。だから、イベント側がシャトルバスを用意していた。最寄り駅までバスで20分くらいかかる。それでも、まずは移動手段が確保できる場所に近づくことが大事だ。それに駅前だったら、タクシーがつかまえられるかもしれない。

ここまで即座に導き出したSさんは天才なんじゃないかと思う。わたしはまったくそんな考えを持てず、次の便に正規の値段で乗るときに100万くらいかかったらどうしようと偏差値の低い心配をしていた。

シャトルバスに飛び乗って、Sさんはすぐに電車での移動時間を調べた。その隣でわたしはもう一度Uberを立ち上げ、これから向かう駅の近くにいるタクシーを予約する。見比べた結果、Sさんが調べてくれた電車に乗れば、空港にギリギリ間に合うのがわかり、めちゃくちゃ安心した。安心してちょっとお腹が空いた。気付けば今日は朝からなにも食べてない。


バスが進まない。

この日は月曜日だった。月曜日の午後3時過ぎに、ニューヨークのどの道がどの程度混雑するかなんてさすがにわからない。駅に近づくにつれて道はいっそう渋滞し、もう目の前というところで動かなくなってしまった。
このまま降ろしてくれ!!と何度も叫びそうになったが、「もうここで降ろしてください」と英語でなんて言えばいいのかがわからず、じっと信号をにらんでいた。
たぶん数分だっただろうけど、死ぬほど長く感じた。
ようやくバスが駅前に着いた。Sさんは言う。
「大丈夫です! 乗れるはずです!」
辿り着いた駅は、一見すると駅とわからない。ショッピングビルの地下に改札がある駅だった。
駅の名前が書いてある入口から階段で下階に降りると、すぐ改札があると思ってたけど、ちがった。
改札がない。しかも案内表示も消えた。なんでないの。時間がない。もう泣きそう。

なんとかどうにか改札を見つけ、すべり込んだ電車はまもなく動き出した。
「これで…間に合いますか?」
「間に合う…と思います」
この時の安堵感と、まだまだ気が抜けない緊張感といったら。何せ、このあと乗換もある。
安堵感と緊張感で、手に持っていたはずの切符を見失う。たしかにあったはずなのに。もう泣きそう。

結局切符はあったし、電車も無事に乗り換えられて空港に着いた。
よかったよかった、とはならない。めでたしめでたし、となればよかった。まだ終わりではない。


空港で、預けた荷物を取りに行く。

わたしたちが参加したイベントには荷物コードがあって、財布とスマホが入るくらいの大きさのものか、中身が見える透明なビニールバッグしか持ち込めない。そしてニューヨークには、コインロッカーがない。日本では駅や街中のいたるところにあるのに、ニューヨークでは最後まで見かけることはなかった。セキュリティとかテロ対策とか、そういうことなんだろうけど、旅行者には不便極まりない。
どのみち大きなスーツケースを引きずってタクシーに乗ったりウロウロと歩き回るのはしんどいので、ホテルをチェックアウトしたその足で、午前中のうちに空港の荷物預かりサービスを利用していた。
その荷物を、取りにいかなければならない。

JFK空港は、とにかく広い。ターミナルがいくつもにわかれていて、ターミナル間をつなぐモノレールが走っているほどだ。
荷物預かりのサービスは第1、第4、第8ターミナルにしかなく、わたしたちは第1ターミナルに預けていた。そして、乗る飛行機はANA、第7ターミナル。荷物を受け取ったあと、さらにモノレールで移動しなければならない。

この時点で16時。国際線お約束の「2時間前にはチェックイン」を過ぎてしまっている。海外慣れしていないわたしたちの頭の中に「終了」の文字がよぎる。
まだだ。まだ希望を捨てちゃいけない。
とにかく荷物を、お土産がぱんぱんに詰まった重たいスーツケースを取りにいかなければ。

ターミナル1は、乗り換えた駅からいちばん近い場所にある。改札を抜けて、猛ダッシュした。午前中に一度行っていただけあって、迷いなく走る。

荷物はぜんぶで4つ。預けた荷物と引き換えに半券をくれて、受け取りの際、その半券と同時にお金を渡す。支払いは現金のみ。荷物の大きさで金額が変わり、受付のお兄ちゃんは、4つで48ドルだから、覚えておいてねと言っていた。

焦っていた。もう時間がない。乗り遅れたら大変なことになる。早く荷物を受け取ってこの場を去りたい。

受付に立ってるスタッフは、午前中に会ったお兄ちゃんではなかった。
半券を受け取ったスタッフは、ゆっくりとわたしたちの荷物を探す。倉庫っぽい部屋の中で、自分のスーツケースをいち早く見つけたわたしは、カウンターの外から大声で「それ! それ!」と指をさした。スタッフがこちらまで戻ってきて、言った。

「$58」


なに?

なんて???


「は?」と、声に出ていたんだと思う。スタッフはもう一度「$58」と、今度は少しゆっくり言った。

値段が違う。

わたしは事前に調べていた。さすがニューヨークは観光地なだけあって、日本人が解説してくれるサイトがたくさん出てきた。JFK空港に荷物預かりサービスがあること、支払いは現金のみなこと、荷物の大きさで値段が決まること、大きなスーツケースだとだいたい16ドルくらいなこと、そして、それは1日の値段なこと。

時間の超過料金があるなんて、聞いてないぞ。
午前中、受付のお兄ちゃんは確かに「$48」と言ったのだ。

確かに言ったけど、しかしそれは証明できない。
口約束だったのだ。半券にもどこにも、値段は書いてない。わたしは48ドルと聞いて、事前に調べた値段と相違なかったからOKだと言ったし、値段がどこにも書いてなくても「そういうもの」だと思っていた。
それが覆るなんて思ってもなかった。わたしは瞬時に「$58」と言ったそのスタッフがぼったくってきたんだと疑ったが、疑ったところでどちらが真実だかはわからない。

わたしは焦っていた。

10ドルくらいオーバーしても、もういいか。時間がないし。
わたしは財布から50ドルを出した。のこり8ドルも出さなきゃ、と。

そこで、手が止まった。


わたしは焦っていた。

時間がない。飛行機に間に合わないかもしれない。間に合わなかったらどうする。乗り遅れたらどうする。日本の夜9時に羽田に着いて、翌日には仕事に行かなきゃいけない。振り替えようにも、次の便はないかもしれない。


わたしはむちゃくちゃ焦っていた。


焦りすぎて、テンパりすぎて、どこかおかしくなっていた。


「No!! ジャスト48!!」

カウンターの外側から、まっすぐスタッフの顔を見て、そう言った。

なんだか、急にムカついた。
今にして考えると、たかが10ドルだ。日本円で1,000円とちょっと。
はした金なわけではない。けど、そんなにむきになって取り返したいほどの金額でもない。
なのに、急にムカついた。

なんでタクシーが来ないんだよ。
なんで道路が渋滞してるんだよ。
なんで駅がこんなにわかりづらいんだよ。
なんで切符がないんだよ。
なんでこんなに時間がないんだよ。

まったく自分勝手なはなしだった。自分勝手だったが、それまでの思い通りにいかなさ、そのストレスが、たった10ドルを惜しませた。こいつにみすみす10ドルやってたまるかと思ってしまった。

大きな声を出すわたしに対して、彼は怒っている様子はなかった。なにごとか言った。英語はまったく聞き取れなかったが、おそらくこれは正当な金額だ、とかなんとか言ったんだと思う。
わたしは彼が言い終わらないうちにまくしたてた。

「No! 朝! モーニングスタッフ! 言った! 48! セイ! ジャストフォーティーエイト! フォーーティーーエイト!!」

もはやなにがなんだかわからない。なにを伝えたいんだかわからない。セイ!ってなんだ。

AKBが48人でよかった。
フォーティーエイトという語感は無意識に耳になじんでいたので、英語がまったく話せないわたしがこんな切迫した場面でも瞬時に発音できた。
スタッフはなおも言いつのるが、わたしは英語の発音教材のように、何度もなんども「フォーティーエイト」とくり返した。


「OK」
彼はちょっと笑っていた。そして、奥からわたしたちのスーツケースを出してくれた。

通じたのかはわからない。わたしはただ48とくり返していただけだ。そのほかの単語なんて数えるくらいしか言ってないし、なんならそれも伝わってるかはわからない。なんなら48も伝わってるかはわからない。
ただ、スーツケースは出してくれた。OKと言ってくれた。
帰れる。これで、日本に帰れる。
わたしは自分史上最高の発音で「Thank you!」と言って、握っていた50ドルをカウンターにばんっと置いた。釣りはいらねえぜとばかりに。これでドーナツでも買いなとばかりに。実際におつりは戻ってこなかった。


このあと、モノレールの駅まで走り、電車を待つあいだに手荷物を整理しようとスーツケースを開けたところで電車が来てしまいあわてて閉じたら閉じきってなくてホームと電車をまたぐ形でスーツケースがぱかっとオープンし危うくドアにはさまれそうになったりしたが、そんなことはもう余談だ。

16時30分、ANAのチェックインカウンターで、息せき切って滑りこんだわたしたちに、美しい制服に身を包んだ係員の女性は言った。

「大丈夫です。あわてなくても、まだ間に合いますよ」


耳に届いた日本語の、安心感といったら。


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チェックインをすませて手荷物検査をすませて、待合ロビーのフードコートでやっとハンバーガーを買う。今日最初の食事だった。
タクシーが来ないとわかった15時からここまで、写真は一枚もない。撮っている余裕なんてまったくなかった。なんならこのハンバーガーも食べかけだし。
勝利のハンバーガーでSさんと乾杯していると、ふた口くらい食べたところで搭乗アナウンスが流れた。



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