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東京ってなんなんだ


ここ数ヶ月、私の頭の中を駆け巡っているワードが「豊かさ」でして。


保育における豊かさもそうだし、暮らしの豊かさもそう。特に、東京の暮らしにおける「豊かさ」ってなんだろうと考えていたりするわけです。


なにか欲しいと思えばすぐ手に入るこの東京都心という環境が「楽で最高だ」と思ってずっと過ごしてきました。


__はずなんだけれど、なんかいつも疲れてる。生き生きとしているかと言われると、そうではないような。常に何かを背負っているような、そんな気がして。

仕事をし帰宅すると同棲中の彼と共にヘトヘト。パッとスマホを見たら20時もすぎていて、作る元気ないからコンビニ行くか、なんて。

買ってきたごはんの裏面を見て「あぁ添加物」と思いながら食べ、本当は出したくないプラスチックゴミを捨てたらソファか床でSNSを開き、自分のアカウントをチェック。そのあとは流行りのブランドや飲食店を漁る。値段を調べて「これくらいなら買えそうだな」「行けるな」なんて。実際には意味わからん金額だったりするんだけど。自分の「好き」よりも「見栄」を選んでいたりしてね。

飲食店はGoogleマップに保存して友人と訪れる日を待つ。実際に足を運んだ場所は130箇所、「行ってみたい」のピンを立ててある場所は302箇所になった。

Googleマップについては「おいしいものを食べたい」という思いからこのピン留めを始めたわけだけど、実際「最高だった」と思える場所は数ヶ所で、「ここは見た目だけだな」「ここは接客が心地よくないな」「回転率命って感じね」といった感想をもつこともそれなりにあり。

なんかこう、生き急いでるからか「せっかく時間とお金を使うんだからいいお店に行きたい」という思いが強くなりすぎていて、失敗を楽しめない、みたいになっている気もする。

一周まわって『結局自分で作るごはんが一番』と思っているのも事実であり本音。
でも自分でごはんを作る時間と心の余裕はほとんどない。

自炊が一番おいしくて、身体にも良くて、節約にもなることは自分の身体が知っている。でも、週末に買った食材は期限を切らしてしまったことも数知れず。お恥ずかしいけれど、正直「もったいない」よりも「仕方ない」の方が勝っている。

肉でも魚でも野菜でも、丁寧に作り、育てた人がいるはずで、1つの命をいただいているのに、そういう背景を大切にしたいはずなのに、現実とのギャップが襲いかかって。

ふと立ち止まって考えてみると、とてもじゃないけど「豊かな生活」とはいえないんじゃない?という疑問をもち始めたのが2ヶ月くらい前。


なにか心に引っかかることがあると「なんで」とひたすら考え続ける癖がある私なので、今回も色々と想いを巡らせてみたんですね。

その結果、なんとなくわかったのは「多分便利すぎる生活に疲れてる」ということ。なにを贅沢なこというんだって思う方もいると思うんだけど、お互いに、ないものねだりなんです、きっと。

生まれも育ちも東京の26歳。スマホもパソコンも持ってる。SNSを使いこなせばいくらだって情報は手に入れられるし、本だって家のソファーで購入してそのまま読み始められる。徒歩1分のコンビニへ行けば生鮮もお惣菜も手に入るし、ネットスーパーを利用すれば最短その日に欲しいものが届く。UberEatsを使えば30分で食べたいものが目の前にくる。生活必需品のコンタクトだってネットで頼めば翌日には届く。(眼科は行くべき)

後半はここ数年のことを書いたけれど、平成になってしばらく経ってから生まれた私は必死に今の暮らしを築いてきた昭和時代を知らない。今あるほとんどの土台ができあがった状態でこの世に生を受けたわけで、小説なんかを読んでいると出てくる昭和の情景には懐かしさを感じられず「へえー」としか思えない世代。

きっと、世の中も、私も、必死に便利さを求めてきたから幸せな状態であることは間違いないんだけど。

ものの過程が見えず、目に入るのは結果ばかりな世界にもはや魅力を感じないというか、残念というか。自分がインフルエンサーとして少しお仕事をしてその仕組みを知った経験もあり、うまいビジネスがじゃんじゃん世に出ていることにも気づいてしまったから、もうなにが本物だか分からないというか。

本当に贅沢な話しなんだけれど、たいして努力をしなくとも手に入ってしまうものが増えていることに危機感を覚えている節もある。これまで根性で努力に努力を重ねて生き抜いてきた人たちと、「世代間ギャップ」という名の下に分かり合えないのも無理はないと本気で思ってしまう。



話しは少し逸れたけれど、人の温もりとか、思いやりとか、温かさ、豊かさ、過程に込められている想いとか。そういうところで感じる、嘘でない、騙してもない、盛ってもない、じわーっとしたものを心と身体が求めている気がする。

特になんでも揃っている環境で過ごしていると、こういう豊かさって、自分で「感じよう」と心を研ぎ澄ませたり、本心で「大切なことだ」と思って自分の行動を変えていかないとなかなか得られないものになっている。


東京が悪いわけじゃないと思う。東京にいたって、小さな幸せを噛み締められる人はきっとたくさんいるし、人間らしい振る舞いをしてくださって心が動かされた経験もした。(高級旅館だったけどね)私の見方が曖昧で、甘くて、後ろ向きになっているだけだろうって、自分に言い聞かせたこともある。

でも、なんとなく、「最終的に人が求めるもの」は今の東京都心にはないように思う。喫茶店で「おまけです」ってちょっとお菓子をつけてくれるとか、小さい子どもがいる家庭は地域で助けるとか、お米と野菜は近所からいただいてるから買わないとか、私の知ってる東京では考えられないもん。

でも、もしいつか自分の子どもが産まれたとしたら、体験的にこういう気持ちを知って欲しい、とか思う。


どこで暮らし、どこで働き、どこで人生を楽しむかなんて、自分で決めていい。心のどこかで「私が悪い」ってかなり長い間責め続けたような気がするけど、自分の心と身体の声は自分にしか聞こえないし、色々な人からの声はしっかり受け止めながらも、自分が思う方向に進んでみたらいいんだと思う。

人はいつか死ぬんだから、そうなるまでの年月をただ楽しんで、人のために、自分のために、過ごしていけばいい。何をしたらいいかわからなくなったら、自分の大切にしたいことがなんなのかわからなくなったら、とにかく自分と向き合って、これじゃない、これじゃない、って繰り返したらいい。

自分の人生なんだから、自分なりの豊かさを追い求めてみてもいいんだと思う。
完全に行き詰まっている私ですけど、答えを求めず、ただ必死に、過ごしてみようと思います。




自分自身を不幸にするのも自分、自分自身を幸せにするのも自分、だね。


また書きます。


こゆめ

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