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ワールドカップと私

眠れない日々

4つ下の弟がサッカー少年団に所属していたせいで、小さいころから、家族の話題は、サッカー一色だった。メキシコワールドカップにあわせて、ビデオデッキを買い、ソウルオリンピックに合わせて、BSチューナーを購入するような親の元で育つと、さすがにワールドサッカーに詳しくなる。おかげさまで、オリンピック、ワールドカップ、トヨタカップ、と昔から、世界のサッカーをよく見ていた。

スポーツ万能な弟にくらべて、私は、運動はからっきしダメで、だからこそというべきか、サッカーとは「見るもの」だった。スタジアム観戦も楽しいが、テレビで見ていても面白い。そして、ワールドカップは特別だった。記憶にあるかぎり、テレビでの初めてのワールドカップ観戦は、1986年のメキシコワールドカップとなる。マラドーナの活躍でアルゼンチンが優勝したことで有名な大会だ。神の手、マラドーナの5人抜き、メキシコの太陽の下、濃い緑の芝の上で、躍動するあの小さな姿は、伝説だが、私にとってのヒーローは、デンマークチームだった。

北欧のそのチームは、その大会のダークホースとでもいうべき存在で、ガタイのいい男たちの分厚い攻撃は、遠慮なく勝ったが、負ける時は、コロッと負けた。たしかグループリーグでは、勝ち進んだが、トーナメントでは、1回戦で消えたと思う。(後でしらべよう)

それから、私は、大学に行って、就職して、アメリカ大会を見に行って、結婚して、子供ができて・・・・・・と人生のすごろくをすすんでいった。

どこかのタイミングで、サッカーが嫌いになるかと思ったが、そんなことはなく、変わらず見ている。どこのチームもガタイがよくなって、どこのチームも分厚い攻撃するのが当たり前になって、日本もワールドカップに出ていて、世界第3位のチームと互角にわたりあったりしていて、いろいろと変わったけれど、国と国の意地のぶつかり合いは、見るに値する。

やっぱりサッカーは面白い。

眠れない日々はつづく。

デンマークチームのこと

1986年メキシコワールドカップについて、もう少し掘り下げてみようと思う。特に、お気に入りのチームだった、デンマークについて、くわしく書きたい。

グループ Eのデンマークは、ワールドカップ初出場だった。そのことにびっくりする。いまでこそ、北欧のチームは、ワールドカップの常連国というイメージだが、そのころはまだ、ダークホースというべき存在だったのだ。

初戦こそ エルケーア・ラルセンの1点だけだったが、2試合目のウルグアイ戦で、大爆発する。エルケーア・ラルセンのハットトリックをはじめとして、レアビー、ラウドルップ、J.オルセンがゴールを決める。対するウルグアイは、PKによる1点のみで、終わってみれば、6対1の圧倒的な勝利だった。
続いて、西ドイツにも、2対0で勝利し、グループリーグ首位で決勝トーナメント進出を決める。ちなみに、このときの西ドイツは、フェラー、ブレーメ、ルンメニゲを擁し、この大会準決勝となるチームである。

このデンマークチームの魅力といえば、何はともあれ、圧倒的な攻撃陣である。野牛と称されるエルケーア・ラルセンと、貴公子と称されるラウドルップの2トップ。なにその組み合わせ、小説みたいと思うかもしれませんが、事実です。本当です。
しかも、この最強ツートップのこぼれ球を、MFレアビーあたりが狙ってくる。ルックス的にも私のツボで、そのころは、ストッキングをずりさげていても、文句を言われなかったらしく、デンマークチームは、ストッキングを足首のあたりまで、ずりさげて、すねあてをむき出しにして、走っていた。そんな野性味あふれる姿も魅力的だった。

一応補足しておくが、最初にダークホースと書いたが、それは、日本からみた視点であって、この時のデンマークチームは、1984年のサッカーヨーロッパ選手権で、ベスト4まで進んでいる。その勢いのままに、ワールドカップに乗り込んできたのである。強いわけだ。

しかしながら、決勝トーナメント初戦で、あっさりスペインに負ける。しかもスコアは、1対5。絶対勝つと信じて、見ていた私にとっては、悪夢のような試合展開だった。もう、このチームが見られないのかと思うと、本当に悲しかった。当時の私は10代、恋人との別れのように悲しかったと思う。

ほかの国のサッカーチームにあれだけ入れ込んだあのころの自分を、うらやましく思う。今は、あんなに入れ込めないから。いろんなことに夢中になって、好きになる熱量は、悲しいことに、少しずつ、落ちてくる。追いかける体力も、試合を見続ける集中力も落ちてくる。ボールや試合展開を追う動体視力も落ちてくる。選手の名前なんて、あっという間に忘れてしまう。もちろん、年をとっても、情熱を失わずにいる人はいるし、それは可能だけど、若いころの視力と体力ではその好きなことを、追っかけることは難しくなっていくのだ。

1986年メキシコワールドカップは、アルゼンチンの優勝で終わり、絶頂期のマラドーナの活躍が有名だが、ほかのチームも個性的で楽しい。プラティニを擁し、シャンパンサッカーといわれたフランスチームのサッカーも魅力的だったし、得点王リネカーを擁したイギリスチーム。マイナーなところでは、背が低くて「ボードが飛び越えられません」パフォーマンスで有名なストラカン。彼は、スコットランドの選手だった。西ドイツのベルトルトを見て、サイドバックがライン際を走る姿が好きになった。ベルギーのシーフォも好きな選手だった。もちろんブラジルは最強だったし(そのわりに準決勝でフランスにPKで負けるのである)スペインだっていいチームだった。

このころのサッカー番組を見ると、楽しいし、わくわくする。うるさいおばちゃんになって、サッカーの楽しさを訴えてしまう。そして、また自分の中で、あれ以上サッカーにのめりこむこともできなくて悲しくもなる。

やっぱりサッカーは楽しい。

1994年のワールドカップアメリカ大会~最高の旅

私は、1994年のワールドカップアメリカ大会に行った。もちろんサッカーを見るためである。あれ?と思う人もいるだろう。ドーハの悲劇が1993年である。日本はまだワールドカップに出ていないはず
そのとおりである。日本チームではなく、他国のチームの試合を見たくて行ったのである。なんと物好きなと言われれば、否定のしようもない。そんなサッカーおたくが、8人も集まった不思議で騒々しい、奇跡のような旅であった。

当時、職場の上司とこんな会話をしている。
「どれくらい行ってくるんだ?」
「10日間ですね。4日には帰ってきます」
「5日は、売り上げの締めだからな。絶対にでてこいよ」
「……。はい。でも、10日間って言っても、4試合しか見られないんですよ」
「それだけ見れば、充分だよ!」

行程は、
6/27 ダラス コットンボール ドイツ対韓国
6/28 ポンティアック シルバードーム ブラジル対スウェーデン
6/30 シカゴ ソルジャー・フィールド アルゼンチン対ブルガリア
7/2 シカゴ ソルジャー・フィールド ドイツ対ベルギー

最初のドイツ対韓国だが、とにかく暑かった。ヨーロッパの放映時間にあわせて、真っ昼間の試合だったのである。ビアジョッキ並みの紙コップになみなみと注がれたコカコーラのMサイズを飲みながら観戦したのだが(コーヒーと発音したが、通じずコカコーラが出てきた)、みるみるうちにクラッシュアイスが、溶けていったのを覚えている。
試合前にマクドナルドに入ったのだが、突然湧き出した大量のドイツ人と韓国人(私たちももちろん韓国人だと思われていた)の対応に、カウンターのお姉ちゃんはキレ気味だった。それは当り前だろう。カウンターには1人しかいないのに、大量の客が店の外まで列をつくり、しかもその客が全員ドイツ人、アジア人。後ろの長蛇の列に一切構わず、小銭をカウンターにぶちまけて、1、2とゆっくり数え始める人さえいて、私のところに順番が来たときには、相当不機嫌で、やっぱり私の発音は通じなくて、コーヒーを頼んでも、コカコーラが出てくるのだった。修正するのも怖かったので、そのままおとなしくうけとった。

そもそも、サッカーはアメリカでは、マイナースポーツで、ホテルのテレビをつけても、サッカーは放映されていなかった。おそらくマクドナルドのお姉ちゃんも、なぜ大量に韓国人とドイツ人がわきだしたか理解していなかったに違いない。

テレビをつけても、スポーツニュースはO.J.シンプソンの妻殺害のニュースばかりで、ワールドカップはどのチャンネルも放映されていなかった。まだ、スマホなどない時代である。情報を得る手段は限られていた。「まだ、日本にいたほうが、試合がみられるし、結果もわかるよ!」一緒にいた友人たちと、騒いだのを覚えている。他会場の結果がわからないのも、困った。私たちは、どこのチームが、決勝トーナメントに進むか知りたかったし、単純にサッカーの試合が見たかったのである。しかし、スポーツニュースは、すべてO.J.シンプソン。彼には、今なお恨みがましい気持ちを抱いている。

ただ、センセーショナルな事件のニュースは、放映されるのである。コロンビア対アメリカ戦で、オウンゴールでアメリカに1点を計上したエスコバル選手が、帰国後銃殺された事件である。そして、またマラドーナがドーピング検査にひっかかって、追放された事件である。
この2件は、さすがに放映された。

後者のマラドーナの薬物使用事件については、私たちの旅に影響をあたえた。6月30日のアルゼンチン対ブルガリア戦は、この追放の直後であり、マラドーナ中心のチーム作りをしていたアルゼンチンチームはまったく機能していなかった。ブルガリアのストイチコフのプレーは楽しかったが、ふてくされたような顔でグラウンドをにらみつけていたアルゼンチンサポーターのお嬢さんの表情をまだ覚えている。

当時私は、まだ20代で、この旅を楽しむ余裕があった。身体も頑強だったし、頭だって働いた。若いころに、この旅にでかけられたことを心より、幸運に思う。一緒に行った友達とは、あの旅に行けてよかったね。若いころに行けたのは幸運だったねとよく話す。

いつでも、いける。もう少し余裕ができたら、絶対行く。そんなことを思っているうちに悲しいかな。あっという間に年をとってしまう。だから、思い立ったらすぐ行けばいい。いかないといけない。
人生タイミングが大事。
年をとっても、それなりの旅ができるけれど、若いころみたいな無茶はできない。
状況や考え方は人それぞれだし、時間がたてば考え方はすぐ変わる。

私は、あの時、最高に楽しい旅をした。それだけでいい。


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