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保育士さんもおうちの人も、もちろん子どもたちも凄いって思った話

「保育園」というと多くの方は、仕事と育児との両立を図るには……、子どもの心身の成長のために……、といった仕事や子育ての視点から捉えられることを思い浮かべるのではないかと思う。
自身の生活に直結していることだから、当然ではある。

しかしこれが私の場合になると「教育の場」という印象がいちばん最初にやってくる。教職課程を経たために、そういったイメージがやっては来るのだが、その中の具体的な光景は浮かんでこない。自身が園児として保育園にいた20年前を思い出そうとしてしまう。
外で遊ぼうとせず、1日中毛糸のマフラーを編んでいた私。屋内で一人で過ごすスタイルは、ここでも養われていたらしい……。

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そんな私に一昨日、ひょんなことから保育士の知り合いができた。保育園で子どもたちと関わることを始めて3年を迎えようとしているくらいの方。彼女の方が年下にはなるが、社会人経験で言えば私の先輩だ。「わたしなんてまだまだ新米ですよ」と笑っていたが、興味深いお話を伺うことができた。

その内容は、子どもと触れ合う中でのやりがいや苦労などに始まり、業務の進め方や指導案についての話せる範囲での相談も(私がちゃんと答えられたかは知らん)。1から10まで広く深く聞かせてもらった。
今回の交流は一見すれば、一人の保育士さんの日常を垣間見ることができたという収穫であるが、それ以上の気づきが私の中に芽生えていた。


私が専攻していたのは小学校教育と特別支援教育だったので、文字通り小学校や特別支援学校で教えること・働くことを深く追究していた。
そこには「私は児童の人間性を育む、最も身近な大人の一人なんだ」「私は子どもたちが障害の種類や程度に応じた身に付けたい力をベストな形で教えられるようにするんだ」という心意気があった。
それ自体は今でも誇れることだと思っているのだが、その基礎となる部分が当たり前のように子どもたちの中に存在することに気づいていなかったように思う。

45分間じっと座って話を聞くことができるのだって、休み時間に友だちを誘って遊びに行くのだって、幼稚園保育園や家庭の中で先生や保護者の方に教えてもらいながら身に付けた姿勢の1つだろう。
小学校教育で「生きる力」を伸ばして行くように、その土台は幼児教育の中でで育まれてきた。だからこそ私が子どもたちとの授業づくりに専念できるのであり、それは彼らの成長の過程の一部分でしかないのだ。そして子どもたちが児童から生徒となっても、学校は続いていく。
つまり、私1人が子どもたちの全てを教育しているのではなく、保育士さんやその先の中学高校の先生との連携によって学びは成り立っているということだ。もちろん保護者とも、だ。
自分だけが先生なのではないと、今更ながら実感する。それぞれの段階での学びがあって、教育は成り立っている。何より、それらを子どもたちが積み上げていくからこそ実現できることだ。
「保幼小連携」「一貫教育」など知識だけがあっても、実感がないのでは意味がなかった……いや、今気づけたことが幸いなんだ。


そのことを彼女に伝えると「考察が深すぎ!」と驚いていたが「確かに、わたしの仕事は子どもたちの生活習慣の基盤を作り上げるところが大きいので責任重大です、でも楽しいですよ」とも教えてくれた。
その前向きな姿勢に、頭が上がらなかった。

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別れ際に彼女は「お盆前の今週は1学期の最後だから、子どもたちといっぱい遊び倒します!」そう張り切っていた。こんな情勢だからこそ、子どもたちの心に残るような思い出を紡いでほしいと、私も強く願うばかりだ。

ありがとうございます、おいしいチーズを買います。