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いくつになっても怖いこと

父の死を経て相当落ち込んで、やっと復活した夏。ぼちぼちとバイトを入れだす夏。

コロナに猛暑にオリンピックに、はちゃめちゃな8月。初盆だけどコロナ感染大爆発で帰省を見送った。と同時に九州は異例の長雨大雨の大災害発生。

浸水想定地域に住んでおり、豪雨になれば即、外出危険。垂直避難するしかないけど垂直の先がない平屋でじっと息をひそめもう1週間以上になる。いざとなったら迷わず避難だ。去年の台風の時も事前に車で遠くに逃げた。国交省のHPを見ながら、上流の河川水位を何度もチェックし、裏の用水路の水かさを目視する。寝ているうちに増水したらやばいな、ちょっとのことで生死が分かれるな。ここ数年、ほんとに覚悟するくらいのレベルの大雨がたてつづけに続いている。

ちょうどうちの猫が体調を崩す。8歳の雑種、そろそろ腎臓が弱るお年頃。膀胱炎は特技みたいな感じだけど、今回はかかりつけが休診のため、大雨をついて初めての病院に行ってみる。でもよくならず、みるみる衰弱した。お盆やし大雨やし、どうしよう、猫はあっという間に急変するし、一日様子を見ようは禁物。もう、子どももみんな自立して私自身この猫にかなり依存(赤ちゃんがわりに猛かわいがり)しているので、父に続いてこの子までいなくなったらどうしよう、耐えられない、と悪いことばかり考えて頭がおかしくなりかけた。ゴーゴーと降る雨、薄暗い家の中、じめじめメソメソ閉じこもっているうちに、あかん、ほんまに病む、誰かと話したい、大丈夫って言ってほしい、誰かー!私とお話してほしい!・・・だが、気軽に連絡とれる友達が私にはいない!寂しい!孤独だ・・・。

やっぱり死を見届けるのが強烈に怖い。怖すぎる。父の臨終には間に合わず、息を引き取るところを私は見ていない。まさか死ぬとは予想もしていなかったその日の5時間ほど前に父と会話して「また来るから~」と手を振り、父も「またな、待ってるで。」と笑って手を振った。それが最後だったから、人がどうやって死の瞬間を迎えるのか、私はまだ知らない。ずっとこの一年、その瞬間がくるまでじわじわと病み衰えていく父を私は直視しながら看病介護できるのだろうかと。いくら覚悟は決めても、それを想像するだけで心臓がバクバクした。コロナ下と実家が遠いことを理由に私はあまり父に会いに行かなかった。最後の1年、そばで寄り添ったのは母だけだったが、今になって母はえらかったなと思う。死がそこまで近づいている人の心境は一体どのようなものなのかは自分がそうなるまで永遠にわからない。でも、死にゆく人をそばで支える人が一番つらいことはわかる。この人は今は生きているけど、徐々に死にゆく。明日のこともわからない、今日も顔で笑って心で泣いて。そんな母の孤独はどんだけだっただろう。私はもっと家に帰るべきだった。

吐いて下して、便まみれになって、毛づくろいもせず飲み食いもせず、ぐったりするうちの猫をおろおろ見守るしかできない私。もしかしたらこの小さい命が尽きるかもしれない、もう治らないと言われたらどうしよう。言葉を話さない小さな体が苦しむのを、私は看病して、高額の医療費を払って通院入院させ、徐々に死んでゆく猫をこの家の中でじっと孤独に看取るなんてできるだろうか。考えるだけでも胸が張り裂けそうだ。つらすぎる。つらすぎて雨音にまぎれておいおい泣いた。食欲もまったくなくて、何も手につかない。自分の子どもが病気したり入院したりした時も胃に砂袋が詰まったような苦しい思いをしたものだが、こと動物に関しては、やっぱり言葉が通じない分、自分のなかで勝手に向こうの思っているのかどうかもわからない思考や感情を勝手に描いてしまう。だから赤ちゃん扱いしてしまうんだ。

盆仕様に祭った仏壇の父に話しかける。

「父は死ぬところを見せてくれなかったね。私らに見せるのはかわいそう、と思ったのかな。だんだん死に顔は忘れてきたけど、笑っている顔はすぐ思い出せるよ。せっかくむこうに行ってのんびりしている時にこんな泣き顔でごめん。今はまだこの猫をそっちに行かせたくないから、頼みます。もうちょっと私も死ぬことを勉強して、見て知って経験を積んだら、この猫の看取りもできるようになると思うから。それまでもうちょっと待機させてほしい。」

盆が明け、かかりつけに診せに行く。きっちり検査を時間かけてやってもらい、適切な処置を受けて猫は回復した。心配していた大きな病気もたぶん今は大丈夫だろう、と言ってもらった。いつも思うけど、人間の医療以上に動物医療に携わる人はすごいなと尊敬する。とくにこの先生は、目の前の小さな命に対してほんとうに真剣に可能性のかけらを探して格闘してくれる。この人に任せて死ぬまで見てもらえたら幸せだろうなといつも感じる。人間もそうだろう、なんかあわないな、ほんとかな、おかしいな、こわいなこの病院、と思いながら納得いかないまま死んでいくのは、本人も家族もつらいし残された側も孤独感を強めるだけだろう。

徐々に体をなめたり排尿ができるようになった猫を見ながら思った。そうか、この子ももう人間にしたら50代半ばか。私同年代やないか、ちょうど更年期うっとおしいわあ、なんか最近身体が重だるいいんよねえって思ってる頃やな。いつまでも赤ちゃんかわいがりしていたけど、じつは身も心もしっかりずっしり詰まった妙齢の女性なんだな。。そう思うと、猫先輩・・・!すみません今まで子ども扱いしてました、しっかりお世話させていただきます!って感情が芽生えた。

そもそもこの猫は、小さい時に茂みの下で雨の中鳴いているのをたまらず保護した経緯がある。その前に同じように親とはぐれた子猫がうちによく遊びに来ていたのを「うちは飼ってあげられないからね~」と見守っているうちに車に轢かれて死なせてしまった。野良猫がこの辺は多くて、私が何もできないうちに死んでしまう子猫たちを見ていられず、あの子たちにできなかったぶん、この猫は絶対死ぬまで何があってもできることをしてやる!と覚悟決めて保護したのだ。それを思い出した。

小さくてかわいいだけの存在じゃなくて、この小さい体でも人間以上にいろんな知見をもって、死ぬまでの時間を精一杯生きているのかもしれない。人間以上のスピードで成熟して老成していく猫に対し、これからは同等、いや格上の存在として接してみようと思う。するとおのずと、その死に向かう様も「勉強させていただきます!」って心持ちで対することができるかも。死ぬのを見ることは、実際、怖い、悲しい、きつい、ことばかりでないだろう。その境目だからこその甘露ももしかしてあるのかもしれないし。生死のはざまにいるものの姿を尊厳の気持ちで、この厳しい世の中から、もっと安心できてのんびり楽しめる(と思うことにしている)あの世に橋渡しをする、なんてことができれば、私の「死ぬのが怖い、死ぬのを見るのが恐ろしい」も克服できるかもしれない。

私はずっといやなことから逃げて回ってきたから、他の同年代の人より圧倒的に経験値が低い。いい年して知らないことが多すぎるからこわいんだと思う。死ぬとは何か、生き死にに関する勉強をもっとして、現場を見て知ることが最善策かなと思った。そんな夏。