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「あんぎお日記」(1991年12月9日)

十二月九日(月)
 ここ数日、おそろしく長くてストーリーが複雑な夢を見ている。まるで日中の覚醒時の単調さを補うかのように。夢の中、いくつかの瞬間の風景は現実のものと同じくらい精緻で、それを見ながらこんなに細部【ディテール】があるのであれば、これは決して夢ではないだろう、と確信して風景に対峙していることが度々ある。
 どの夢にもスパイ映画のようなハラハラさせる緊張感がある。ここ十年くらいは穏やかな夢しか見ていなかったのに(夢の質が確実に変化したあの時期についてははっきりと覚えている。最近嫌な夢を全くみなくなったなあと自覚したのだ)。
「うるさくて耳が裂けそうだ」(渡部の爺さん) 

鼻にファイバー入れられる
眼前に
銀のブルガリ揺れる

 半月ぶりに医学部生協に行って本を購入する。
『精神病理からみる現代思想』小林敏明(講談社現代新書)
『芽むしり仔撃ち』大江健三郎
『NHKラジオフランス語講座12(テキスト)』
『FS(FUKUOKA STYLE)朝鮮通信使』星雲社
『NHK趣味百科 書道に親しむかな』榎倉香邨

 病室のみながよく使う仙台弁に「我折る」がある。「いやー、点滴つづきすぎて、そろそろガオッてきたなやー」のように。『新潮国語辞典(現代語・古語)』によると、
ガおる[我折【を】る]我を折る。閉口する。弱る。「いやはや――りました[仮名手本忠臣蔵]
 

 ロビーにて「看護婦と結婚してその重労働から解放してやる」みたいなことを言っている男。遊女の身請けのような話だな、と思って聞いている。
「ひとつのシニフィアンが間主観的に『通じ』合うことそのことが、シニフィエの成立にほかならない」
「フッサールは、こうしたわれわれの日常世界の中における態度を『自然的態度』と呼び、その態度の『現実』措定の仕方を『自然的態度の一般定立』と呼んでいる」
「自分にあらかじめ与えられている世界を、その自然的実践的性においてのようには受けとらない。またそれを、実証的な学問においてのようにも受けとらない。つまり、世界をあらかじめ存在する世界としては受けとらないのである。これが『エポケー Epoche』と呼ばれるものである」
「自然で自明だと思われてきたものを、いったん括弧に入れ、しばらくその自然的態度の妥当性を棚に上げておくのである」(以上小林敏明)
「・・・定立のある種の停止は、或る全く固有なものなのである。われわれが遂行した定位を、われわれは放棄するのでなく、(また)われわれは、われわれの確信に何らの変更をも加えるものではない」(『イデーン』フッサール)
「われわれは、他者が告知したものから他者を知りえるのではなく、その告知を知る以前にすでに他者として知らずして知っているのである。他者がすでに前もって『生活世界』に住む他者であるとして先構成されるかぎり、その他者のいうことははじめから了解可能なのである」(『沈黙と自由』松尾正)
プレコックス感【ゲフュール】=了解不能感
人のすりかわり―「替玉妄想」
「皆がお面をかぶっている。誰かがお面をかぶって主人の役をやっていて、本当の主人はいない。息子がその役をやっているときもある。息子も本当の息子でないことがある。近所の人が息子のお面をかぶって、息子に変装してくることもある。知らない人が勝手に家の中にあがりこんで、ぐうぐう寝たりするので困ってしまう」(『内省の構造』長井真理)
見慣れた物や音がその過去を背負って今の中で統合的連続的にとらえられるように~
→ 連続性のない、その時々に異貌のものとしての登場人物。
→ その場合、相手のアイデンティティだけでなく、自分のアイデンティティもまた、解体している可能性があるということだ。← 間主観的解体
患者「自分はどうやって日本に来たのかわからないけれど、気づいたら日本だった」→自分が一体だれなのかわからない。

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