徘徊【小説】
真夜中にガラガラと玄関の戸が開く音がした。まただ。わたしはうんざりしながら布団を出た。
玄関に行くと、思った通り、戸の前におじいちゃんの丸まった背中が見えた。外に出ようとしている。
「だめよ」
そう声をかけたが、おじいちゃんはわたしのことなど気にもとめず外の暗闇に消えてしまった。
ママを呼ぼうとも思ったが、その間におじいちゃんがどこへ行ってしまうかわかったものではない。おじいちゃんは認知症なのだ。
急いで追いかけ、敷居でつまずいてあやうく転びそうになった。なんとか体勢を立てなおし玄関を出ると、おじいちゃんがまだ家の前にいたので、わたしは胸をなでおろした。
「もう、おじいちゃん。なかに戻ろうよ」
「んんっ」
おじいちゃんは玄関先にある柿の木に手を伸ばしていた。指先がかすかに柿に触れるがもう少しのところで取れないようだった。取ってあげようとしたが、小学生のわたしが背伸びをしたところで触れられもしない。
何度やっても無駄に思えたが、おじいちゃんは同じ動きを繰り返しつづけた。放っておいたら永遠にこうしているかもしれない。わたしも負けじと「家に戻ろうよ」と声をかけつづけた。
不意に頭上からウーッと低いうなり声が聞こえた。わたしが何度言ってもやめなかったのに、おじいちゃんはピタッと動きを止めた。
屋根のうえで二つの小さな黄色い目が光っていた。黒猫だ。騒がしい家主に腹を立てたのか、毛を逆立てている。
黒猫がもう一度うなると、おじいちゃんは「うわーっ」と叫びながら、はじかれたように逃げだした。
「ちょっと待ってよ!」
おじいちゃんの足は意外に速かった。必死で走ったが距離が縮まらない。過疎化が進んで数少なくなったご近所さん家の前を通りすぎ、やっとおじいちゃんに肩を並べたときには、息がぜえぜえして苦しかった。
「ちょっと、おじいちゃん。ねえってば。家に帰ろうよ」
「ん? 花か」
「そう、あなたの孫よ。わかるでしょ?」
「ん? なにを言っておるんだ」
「もう、いいから帰りましょ。こんな夜中に出歩いたら危ないわ」
「ん? なにを言っておるんだ」
「もうっ! よ・な・か、なの!」
わたしは思わず大声を出した。その声も冷たい夜の闇に消えてしまった。
「……ほら、こんなに暗いでしょ。わたし、怖いよ」
慣れ親しんでいるはずの田舎道は、昼間とはうってかわって不気味な気配に満ちていた。まばらに並んだ電灯のひとつがチカチカと明滅を繰り返している。道のわきには田んぼが広がっており、その向こうは山だ。ざわめく木々が両手を挙げて押し寄せてくる怪物みたいに見えた。
「おじいちゃん、帰ろうよ……。どこ行く気なの?」
「んんー、花にお土産を買ってやらんとなあ」
「いらないよ。それにこんな夜中にお店やってないでしょ」
「花柄のストールがええかなあ」
「いらないよ! ストールなんて」
その瞬間、おじいちゃんが急に立ち止まった。わたしの言葉で立ち止まったのではなく、道端の立て看板に興味を引かれたようだった。木の板に赤字でなにか書いてあるが、かすんでいてよく見えない。看板の向こうは、田んぼで使う水を溜めている池だった。たぶん誤って池に落っこちないよう警告する看板だろう。
おじいちゃんは看板をしげしげと眺めると、「店閉まってしもうたかなあ」とつぶやいた。
「そこはお店じゃないよ。危ないから行っちゃだめ」
おじいちゃんは例のごとくわたしの忠告を無視した。池に近づいていく。池の前で止まるのかと思いきや、歩調を緩める気配がなかった。
「だめだってば!」
わたしは無我夢中でおじいちゃんの服のすそをつかんだ。間一髪だった。池を目前にしてもなお、おじいちゃんは前に進もうとしていた。わたしは重心を低くしてかぶを引っこ抜くような姿勢で対抗した。
「だめ! 落っこっちゃうよ!」
何度言っても、おじいちゃんは力を抜かなかった。しかも結構力が強い。しだいに手がしびれてきた。もしこのまま手を放したら、おじいちゃんは勢いよく頭から池に真っ逆さまだろう。
「だれか助けてー!!」
手の力も尽きかけ、あらん限りの大声を出したときだった。
「ちょっと、なにしてるの!」
後ろのほうからママの声がした。その瞬間、おじいちゃんが急に力を抜いたせいで、わたしは尻餅をついた。
ママが駆け寄ってきて、わたしとおじいちゃんを交互に見比べた。
「いったいなにしてるんですか! 部屋にいないから、びっくりしたんですよ。もういい加減にしてください」
「ほんとよ。おじいちゃんったら、もう少しで池に落っこちるところだったんだから」
わたしは頬を膨らませた。すると、ママが変なことを口にした。
「花おばあちゃんもですよ」
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