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売れる・売れないではなく、作り手の精神のゆらぎが宿る芸術を大切にしたい

価値のある芸術とはなんでしょうか。

売れたものだけ価値のある芸術である、という考え方もありますが、私はそれに違和感を感じます。経済的に価値があるかで芸術の良し悪しを判断するのは、西洋の美術マーケットの考えです。

西洋において評価されるものとは新しいコンセプトを持つモノです。自分で手を動かしたかどうかや心から感動できるかは関係なく、過去には無かった強固なロジックを作れるかなんです。

それが一つの芸術のあり方として存在するのは良いかも知れませんが、それ以外は芸術ではない、というのは言い過ぎな気がします。

芸術とは、精神のゆらぎがあるものだと、私は思っています。精神のゆらぎとは、作品に現れる制作過程における作り手の精神状態です。強固な論理をこねくりまわすのではなく、実際に自分の手を使って作られてこそ生まれるものです。

そうしたものはアートマーケットの市場には乗らないかもしれません。しかし、人の心を揺さぶるものであり、値段という数字だけでは測れないものだと思っています。

西方寺では、そうした精神的なゆらぎが感じられる芸術活動を大事にしたいと思っています。例えば、西方寺に置いている石仏を作っている柴辻さんという方がいます。彼の石仏からは言葉にできない精神のゆらぎを感じるんです。

石仏師の柴辻さん

石仏は一つの作品を作るのに、数年かかるのが当たり前です。始めに考えたコンセプト自体が変化していきます。だから、その時々に感じたことを大事にして、目の前の石仏を彫っていく。そこに、見る人はそこから精神のゆらぎを感じる。

西洋的価値観の芸術が数字と論理で成り立つものだとしたら、柴辻さんの芸術は精神と身体性で成り立つものです。

芸術の世界に限らず、私は自分の感情に向き合い、石仏を彫るような身体性を伴った単純な行為が今の社会で大事だと思っています。今の世の中は情報にあふれていて、なんでも頭で理解しようとしがちです。しかし、そうした頭だけでわかること、数字で理解できることを追い求めると人間らしさがなくなってしまうと思うんです。体と脳を切り離せるのであれば、それで良いかもしれないですが、そうはいきませんよね。

例えば、頭ではお金欲しいって思っている人でも、自然の中に身を置くと、心が満たされる。数の世界で考えたら、自然の中に身を置いても、何にも生んでないんですよ。非生産的な行為です。でも、その非生産的な時間が大事なはずなんです。 

西方寺ではお茶の稽古をひらいていますが、普段は忙しいビジネスパーソンの方もいらっしゃいます。きっと、数字の世界では味わえない身体性を伴う体験を求めにきている。

この先、日本は昔みたいな高度成長は期待できないと思うんです。そんな時に、何を心のよりどころにしたらいいのかというと、身体が求めるものだと思うんです。

そうした、身体性を伴う、本来の人間的な行為を大切にし、精神的な豊かさを満たすような芸術を今後も大事にしていきたいと思っています。


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