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「カミングアウト出来る社会を目指す」ってなんか違う感じしません?

同性婚に「賛成」が全体の約8割を占めた。調査でわかった5つのこと」って記事を読んで、カミングアウトの項目でモヤモヤしまして。

上記の記事の結果で「職場でのカミングアウトに抵抗があるLGBT層は、50.7%」って結果が出てるんですけど、なんだかカミングアウトして当然みたいな感じになってないですか? 職場でしか顔を合わさないような連中に自分の性傾向をオープンにする必要、あります?「秘密にはしない、でも誰彼には言わない」でいいんじゃないの?ダメなの?打ち明けなくても良い社会を目指すのが筋なのでは?

必要な関心と「知らんがな」の精神

偏見や差別が根強い現状では、相談する機関や窓口の充実は必須だと思いますし、勇気を出して誰かに言いたいなら信頼できるカウンセラーに対してってのが一番安心だと思うんですよね。だってプライバシーじゃないですか。法整備やそういうカウンセリング的な部分に関心を振ってくのは筋として正しいんじゃないかなと。

でも個人に関しては無関心が必要じゃねえのって思うんですよね。「お前のセクシャリティとか知らんがな」みたいな。ある日突然、同僚が女装してきても「おおう、マジか」ぐらいで終わらせるみたいな。同性同士で結婚しようがなんしようが「あっそう」で終わる世界っつうか。性傾向がナチュラルボーンならそれが当然の世界じゃないですか。
そのレベルまで持っていけて初めてLGBTとか性的マイノリティに分類される人ら(あえて分類って言葉を使いますけど)の正当な権利って確立される(≠認める)んじゃねえのみたいな。

…って思うんですけど、全く賛同を得られたことがないんですよねー。アライ(Ally)みたいなのも出てき始めてるし。アライって「LGBT当事者たちに共感し、寄り添いたいと思う人たち」らしいんですが、他人に理解してもらうことすら難しいのに、誰か一人に寄り添うことですら難しいのに、それを両立できるアクロバットじみた芸当が出来る人間ってことでいいのかな。菩薩かなんか? 共感できなくても、寄り添えなくても、理解する努力をし続けるってのが現実的だと思うんですけど、共感や思いやりみたいな建前が必要なのかなぁ。理解の和を広げるためには現実的な落とし所がまず必要だと思うんですけどねー…。


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