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四十にして惑いたい

令和3年3月31日の日記
1年間、朝の番組を担当しておりましたが、本日、最終回を迎えました。とっても面白い番組でした。おしまい。ちゃんちゃん。

そんなんで終われるわけがないのでもう少し書きます。番組自体は一昨年の7月に始まりまして、立ち上げ当初から1曜日だけ担当してはいたのですが、去年の4月から帯を任していただけることとなり、早起きに対する不安もありながら、それに勝るやりがいを感じながら、駆け抜けた一年でした。

一年、担当させていただいて、あまりにも当たり前のことで書くのも申し訳ないくらいなのですが、リスナーの皆様は賢いのだということを感じました。もちろんこれまでアホやと思ったことなど一度もありませんので、再確認したということなのですが、自分のできることだけやっていては、到底リスナーの皆さんには楽しんでもらえないだろうということを実感しました。足りない頭なりに、上を志して取り組んでいかないと、リスナーの皆さんは、すぐに見抜いてしまうだろうな、ということがよくわかりました。

いわば「強敵」と書いて「とも」と読ませるような間柄です。いや、絶対に「敵」なんかではないんですけども。しかし、対峙したときの緊張感を例えるならば「強敵」という表現は割と的を射ているのではないかと思います。自分ができることをやっていては絶対に太刀打ちできない。でも自分ができること以外に私ができることなんてないでしょーが。と開き直るのは簡単ですが、そうではなくて、「自分ができること」の程度を上げていくということの繰り返しをやっていたような気がしています。気がしているだけだから、それは錯覚であり幻なのかもしれませんけど、それでも、相対するうえでの礼儀というのでしょうか。そういうことを昔よりよく考えるようにはなりました。

四十にして惑わずっていうのが私はあまり好きではなくて、「何、四十ごときができあがったって思っちゃってんの?」ってなるんです。若いうちから賢い人ってのは、割と四十くらいになると固まってしまい、人の感覚を取り込もうとしなくなりがち。私の身の回りにもいますが、自分の感覚こそが素晴らしく、自分の感覚に合わないものはたいしたことがない、という錯覚に陥ってしまうことが多々あるのですが、その人の話を聞いていると20年前からなんにも成長していなかったりするものです。

お酒が入るとこういうことを語りがちになり、いやになりますが、そういうことにずっと悩まされてきていますので、私にとっては避けて通れないものなのです。

男女の差別なんかが問題になっていますが、それでなくとも、「涌井の作ったものだから面白くない」と判断してしまわれる方もおられます。まったく同じものを涌井以外の誰かが作っていたら認めちゃったりします。周りでセンスがよいと言われている人の中にも、自らの作り上げたステレオタイプの範囲でしか芸術作品を判断できない人がいます。

こういうことを書きだすと、私は卑屈な人間であるからして、どんどんどんどん暗い方向に話をもっていってしまいますので、今日のところはこの辺でやめておきます。

飲みながら書いてると、何のことを書いているのかわからなくなりますね。

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