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短編小説『試験中はマスクで鼻を覆いなさい』

●六月には五十になる花田志照は今、東京都内のR大学で試験を受けている。離婚したのは去年の今頃だった。まだコロナコロナと騒ぎ出す前のことだ。二十年間、夫婦でいた妻の早苗が唐突に別れを切り出した。

 「あなたといても面白みがない」

 これは堪えた。付き合いはじめて三ヶ月の早苗に言われたなら別に構わない。二十年連れ添った早苗に離婚を切り出されたその理由として、「あなたといても面白みがない」は味が無さすぎた。あんなものを花田志照は食べたことがない。コロナ感染の心配はなさそうだが、それにしても。

 大切なものには失ってから気づくというが、花田志照は早苗の大切さをよくわかっているつもりだった。しかし残念なことに「面白み」の大切さを理解していなかった。失うまで気付かないのは、やはり面白みのない人間だからなのだろう。面白みのない人間は生きる反射神経が決定的に鈍い。それでも鈍いなりに大学に入り直し、学を深めれば、早苗のいう「面白み」を手に入れられるのではないかと一念発起し、受験勉強を重ねてきた。

 コロナ禍でリモートワークが当たり前になったことも追い風となり、仕事はテキトーに済ませ、空いた時間を勉強に充てたのだが、いざ、試験当日。もちろんのことながら、同じ試験室に入る受験生は皆、高校生だ。何人か浪人生はいるのだろうが、もうすぐ五十路の花田志照には同じくらいにしか見えない。いくらでもやり直しがきき、何にでも挑むことができる彼らが、花田志照の目にはやたら眩しくみえ、軽い眩暈を覚えた。

 一時間目の地理については、特に勉強せずとも問題ないだろうという算段があり、それに、時間のないなか、地理に学習時間を割くくらいなら英語や数学を強化したかったため、花田志照は、地理のことを捨てていたのだが、それでも8割はわかると踏んでいた。
 
 ところが、問題が頭にまったく入ってこない。周りの若造どものことが気になって仕方がない。例えば、花田志照の前の席の前野席夫くん(仮名19歳)は、いまは中身のない面白みもない男だとしても、将来性を買われて早苗のような女とヤッて童貞を捨てて、男を上げた分、ますます早苗のような女は席夫くんに惚れ上げて朝から晩まで求め合うのか、若いっていいね。おまえが童貞を捨てるのなら、せめて俺は捨てた地理をいま拾いたい。

 息が苦しくなってきた。
 マスクのせいだな。
 花田志照はマスクを左手でずりおろし、鼻だけ出したところ、試験官と目が合った。試験官はめんどくさそうに花田志照のもとにやってきて耳元で囁いた。

 「鼻を覆いなさいよ。意味ないよ」


●二宮金太郎は口説いては断られ、口説いては断られを繰り返していた同僚の末次真紀と、今夜ようやく二人きりで会えるつもりをしていたところ、予定が白紙になってしまった。冷静に考えれば、緊急事態宣言下において、リモートワークが推奨されている職場の同僚とプライベートで会い、そのうえあわよくばセックスを、というのがどれだけリスクをはらんでいるかは理解できる。しかし、理解と冷静を越えた先に末次真紀はいるのだ。彼にとっての誤算はただ一つ、末次真紀が冷静であることだった。

 すっかりやるつもりで昨夜は自慰を自粛し、今日はコンドームを財布にしのばせてやってきたのに、こんなことなら試験が始まる前に一発、末次真紀で抜いておけばよかったと、どこにもぶつけようのない苛立ちを抱えていると、不思議なもので「その苛立ち、ぶっつけちまいなよ!」と挑発するかのように、おもむろにマスクをずらして鼻を出した受験生と目が合った。受験生、といっても、どうやら二宮金太郎よりも年上のおっさんである。生気もない。このおっさんは何しにここに来たんだろうか。めんどうだが、ドロっとしたこの苛立ちをぶっつけるには格好の相手でもあった。

 「鼻を覆いなさいよ。意味ないよ」

●そうだ。確かに意味はない。仮に試験に受かり、大学に入学できたとしても早苗が戻ってくるわけではないし、大学で学びを深めたところで花田志照は劇的に面白い人間になどなれないだろう。意味などないのに、どうしてこんなところにいるのだろうか。いま、ここにいることについて、花田志照は意味を見出したかった。

 「おい。鼻を覆えといってるだろう」

 無視すると、試験官はさらに声を荒らげ、「何度言わせるんだ。鼻を覆いなさい」「狂ってるのか。マスクは鼻を覆わないと意味ないよ」

 そんなことはない。いま、意味はできたてほやほやだ。しかし、地理の試験はタイムアップだから、午後の英語まで、この意味を温めておこう。試験官さん、ありがとう。

 英語の時間に花田志照は、鼻をマスクで覆わずに試験を受け、失格を宣告された。笑いが止まらない。早苗よ、俺はいま、日本でいちばん面白い男になったぞ。

という物語の一つでもあれば、鼻出しマスクの男性にも共感をしないでもないのですが、いまのところの報道に触れる限りでは、なかなか難しいところがありますね。

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