雪の上の足跡

ここに来るのは相当長い道のりだった。
新幹線を使わなかったのは何も急ぐ理由が見つからなかったから。
だから、わざと各駅停車の普通列車を選んだ。
今までは全て時間との戦いの毎日だった。
時間に追われ出来るだけ効率的に時間を有効活用する。
でも、今はそんな事などどうでも良い。
出来るだけ贅沢に時間を無駄遣いしてやろうと思った。
そのせいか、普通列車を3度乗り継ぎ、そこからバスでようやく目的地に
辿り着く事が出来た。
トータルで5時間以上の大移動になった。
しかし、それで問題は無い。
俺は今、最後の目的地に辿り着いけたのだから・・・。
このバス停で降りたのは俺だけだった。
バスの運転者も不思議そうな顔で
「本当に此処で降りられるんですか?」
と聞いてきたくらいだ。
それでも一度この山の写真を見た時に俺は運命的なものを感じると同時に何か
懐かしさすら感じた。
それからずっとこの山に憧れて生きてきた。
この時の為に・・・。
俺はゆっくりとバス停から登山口へと歩き出した。
決して有名な山ではなかったし標高が高い訳でもない。
俺は此処に登山にやって来たのではない。
夏山に登った事は2度ほどあったが全てが団体行動で山を散策するという感じだった。
しかし、俺が今、入っていくのは雪が降り積もった冬の山だ。
他に登山客も見当たらなかったしきっと山に入れば二度と下りて来られる事も
ないのだろう。
父親が亡くなってからは母親と二人で生きてきたがその母親も知らない男と再婚し
俺は捨てられた。
それからは親戚の世話になりながら1人で生きてきたが良い事なんて一つも無かった。
中学、高校と新聞配達のバイトをしながらなんとか卒業する事は出来た。
高卒で就職した工場は酷い労働環境ではあったが、何も考えずひたすら体を
動かし続けるという意味では助けられた一面もあった。
そんな会社も不況のあおりを食らって簡単に倒産してしまうと再就職はかなり困難
だと思い知らされた。
趣味を聞かれれば「ウオーキング」と答える様にしていたが何のことは無い、ただ単に
車もお金も無かったから歩くしかなかっただけ。
彼女も一度だけ出来た事はあった。
しかし、すぐに他の男に乗り換えられた。
まあ、こんな俺が一度でも誰かと付き合えたというだけで感謝するしかなかったから
彼女を恨む気持ちは感じなかった。
友達もいなかったし親戚からも疎まれているのだと思う。
これまで30年以上生きてきて何も良い事が無かった人生。
きっとこれからも何も良い事など起こらないだろう。
自分の財産など何も無かったし良い思い出なんか一つも無い。
ただ神様は最後に1つだけ平等なものを与えてくれた。
それは「命」
どんな裕福で幸せな人間にも命は1つしかない。
そして、こんな最下層の俺にも・・・。
神も悪魔も信じた事は無いがこれだけは感謝に値するのだと今は強く感じている。
だからきっと古代から王達は不老不死を追い求めたのだろう。
どうしようもない事を何とか覆そうとして・・・。
しかし、不老不死など存在しない。
人間はいつかは必ず死んでしまうのだ。
そして、生きていく事は絶対厳守の掟でもない。
命は各々が与えられたもの・・・。
それをどう使おうが、誰に文句を言われる筋合いも無い。
だから俺はこの冬山に1人でやって来た。
自らの命を絶つために・・・。
その為にわずかに残ったしがらみも全て捨ててきた。
住んでいたアパートも引き払って来たし少しばかりの貯金も全て寄付という形で
処分してきた。
俺の代わりに誰かが少しでも生き延びられるのならそれこそ本望というものだ。
そして、この山ならば春になるまで俺の亡骸が見つかる事も無いだろう。
だから、少なくとも春までは静かに眠る事が出来るはずだ。
それにしても喉が渇く。
これから消えていこうとしている俺が?
それを考えると滑稽さに少し笑えてくる。
俺は持参したリュックから水筒を取り出してのどを潤した。
今回、少しばかり登山の用意をしてきた。
最後に山の頂上を見てから死ぬというのも悪くないと思ったから。
これまで何ひとつ達成してこなかった俺が最後に冬山を登り切ってから自ら命を
断つ。
最後くらい何かをやり遂げてから死んだ方がきっと地獄の閻魔大王の心象も
良くなるのではないか?
そんな事を考えながら歩いているといよいよ見渡す限り真っ白な雪原に出た。
誰も足跡も付いていない雪の斜面が延々と続いている。
此処からはそれなりの覚悟が必要になる。
柔らかい雪は滑落の危険は無かったが膝から少し低いくらいの雪を掻き分けて
進まなければいけない。
山中に辿り着くまでに体力を使い切って死ぬ事だけは避けなければいけない。
だが、すこぶる気分が良いのも事実だった。
晴れきった空と澄んだ空気がこれほど気持ちの良いものとは知らなかった。
そんな雪の斜面を登り続けていて気付いた事があった。
どうして俺は全く疲れないのか?
確かに歩く事だけには慣れてはいたが登山、しかも冬山を登るのは初めての経験
だった。
それなのに全く疲れを感じていない事に驚いてしまう。
俺はこんなに体力があったのか?
いや、まさか・・・。
きっと死を覚悟した者は苦痛や疲れを感じないように出来ているだけなのだろう。
雪原を歩き始めてもう30分以上になる。
疲れは感じないがやはり何故か喉だけは渇く。
俺は立ち止まり水筒から水を飲んで喉を潤した。
そして、その場で振り返ってみる。
もうかなりの高さまで登ってきたことがわかる。
下界は遠く霧にかすんでおり車の音も何もかもが聞こえない無音の世界が其処には
広がっていた。
そして、それと同時に不思議な事に気付く。
俺が歩いてきた足跡が雪原の上に1つも残っていなかった。
確かに俺は四苦八苦しながら雪を掻き分け雪原を上ってきた。
それなのに雪原の上にどうしてその痕跡が残されていないのか?
何故だ・・・・どうして?
しばらくその理由を考えていたが馬鹿らしくなって止めた。
俺は此処に死に場所を求めてやって来たのだ。
だとしたら、そんな事などどうでも良い事じゃないか?
いや、人が近づかない冬山なのだからこんな不可思議な現象が起こったとしても
何も不思議ではない。
それどころか、俺は今、奇跡を見せられているのかもしれない。
それならば、その世界にどっぷりと浸かればいい。
俺は何も見なかった事にして再び雪の斜面を登り始めた・・・。
再び歩き始めた俺だったがやはり先程の光景が頭から離れなかった。
不思議とか怖いという感情は沸いてこなかった。
自分が歩いてきた道に何も残されていない・・・。
それがまるで自分の人生の様に感じられてしまい妙に可笑しかった。
俺が歩いてきたこれまでの人生には何も残らなかった。
名誉も名声も金も・・・・そして人との繋がりも・・・。
そんな俺が雪の上を歩いているのだから足跡すら残らないのも当然の事なのかもしれない。
そして、俺が死んだとしても悲しむ人も、逆に喜ぶ人だっていないのだ。
本当につまらない人生だよな・・・。
そんな言葉をポツリと呟きながら俺はまた雪の斜面を登っていく事に集中した。
そうして歩いていると次第に天候は崩れ始めていく。
時計を見ると時刻は既に午後4時を回っていた。
ヤバいな・・・計算ミスだ。
これじゃ山頂に辿り着くなんて無理に決まってるじゃないか!
そう思い、気持ちばかりが焦るがなかなか前へと進む事が出来ない。
そうしていると前方から薄っすらと明かりが見えた。
どうやら山を下りてきた登山パーティの一行だと分かったが、その移動速度はとても
雪の上を歩いている様には見えなかった。
下手に怪しまれても困るからな・・。
顔を合わせないようにしよう・・・。
そう思い前だけを向いて歩き続けたが近づいてくる一行に思わず立ち止まってしまう。
その一行は明らかに雪の上を少しだけ浮いた状態で滑るように此方へと進んできていた。
そして、近づいてくるにしたがって次第に大きく聞こえてくるお経の様な声。
俺は知らぬ間に自分の体が恐怖で震えだしている事とに気付いた。
俯いたままその場で立ち尽くす・・・。
俺にはそんな事しか思いつかなかった。
その一行が滑るようにして俺の横を通り過ぎようとした時、俺は何故か彼らの足元
をもう一度見てしまった。
自分の眼でもう一度彼らが生きているのか、それとも死んでいるのか、を
確認したかったのだ。
しかし、その瞬間、彼らの動きが止まり完全に俺の横で停止した。
全員でお経を唱えながら手を合わせているのがわかった。
そして、全員が俺の方へと顔だけを向けている事も・・・。
生きた心地がしなかった。
山で死んだ者とすれ違う事がある、という話を聞いた事はあったが、そんな時には
どうすれば良いのか?がどうしても思い出せない。
その間もどんどんとお経を唱える声が大きくなっていく。
薄暗い雪原に読経の声だけがこだまする様に響き渡る。
体中から汗が噴き出してくるのがはっきりとわかる。
どうすれば助かるんだ?
どうすれば、こいつらは俺から離れていってくれるんだ?
その時ようやく俺は思い出す事が出来た。
そうだ・・・声を出さなければいい。
そして、顔を見なければいい。
ただそれだけの事を守ればいいだけだ。
俺は俯いたまま片手で自分の口を塞ぎ、声が漏れるのを必死で堪えた。
どれだけそうして固まっていただろうか・・・。
突然、読経の声が止んだ。
そして静かになった薄暗い雪原が一瞬更に暗くなった様な気がした刹那、
それらは音も無く其処から移動を始め俺の横から離れていった。
早くこの場から逃げなければ!
俺は黙ったままその場から必死で山の斜面を上った。
本来ならばこんな気持ちの悪い山からはすぐに下りたかったが先程あいつらは
山の斜面を滑るように下りていったのを見ていた。
だとしたら俺に残された選択肢は山を上っていくしかなかったのだ。
雪に足を取られてなかなか前へと進まなかった。
どんどん辺りは暗くなっていきやがて雪以外は何も見えなくなっていった。
しかし、そんな事など気にしている余裕は無い。
確かに俺はこの山へ死に場所を求めてやって来た。
しかし、あんなバケモノの仲間になるのだけは御免だった。
そうやってジタバタと雪の斜面を歩いていた時、突然、前方に小さな山小屋が見えた。
その山小屋には誰かがいるのだろう。
山小屋からの屋根からは暖かそうな煙があがっており、眩しいくらいの明かりさえも
漏れていた。
あそこで一夜を過ごさせてもらおう・・・。
ようやく山小屋の前へと辿り着いた俺は、焦る気持ちを抑えながら入り口のドアを
ノックした。
すみません・・・山に迷ってしまって・・・。
今晩、一晩だけ泊めてもらえませんか?
そう言うと、すぐにドアが開き、中からいかにもといった風貌の山男が
顔を出した。
どうしました?
そう問いかけられた俺は、すぐにこう返した。
つい今しがたバケモノの列に遭遇してしましまって・・・と。
その言葉を聞いた瞬間、その山男の顔は大きく歪み、人間とは別の何かの顔になって
今、顔を見たね・・・?
話しかけたね・・・?
と言ってから消えてしまった。
それと同時に今まで目の前に在ったはずの山小屋も霧のように消えてしまった。
なんなんだ?
今のは幻なのか?
そう思った瞬間、遠くから読経が聞こえてきた。
俺にはもうその場から逃げる体力は残ってはいなかった。
次第に大きくなる読経の声に俺はその場でうずくまりガタガタと体を震わせている
しかなかった。
やがて耳元で読経の声が聞こえた瞬間、俺の意識は飛んでしまった。
 
 
あれから、どれくらいの年月が経ったのだろうか?
気が付いた時には、俺はこの山を上ったり下りたりするのを繰り返していた。
あいつらの列に加わって・・・。
そういえば、俺が山を上って来て振り返った時、足跡は残っていなかった。
自分の人生と重ね合わせてそれを悲観したものだ。
しかし、今の俺はこいつらと一緒に隊列を組んで山を上り下りしているだけ。
バケモノの一員になって・・・。
そして、こいつらの通った後には何も跡が残らない代わりに、視えないレールの上を
行ったり来たりしているだけだ。
俺はどこでどう間違えてしまったのか?
人間なんて生きていればそれで十分なのだ。
人生の優劣なんて誰にも決められない・・・・。
それはスキルという事に、もっともらしい理由も意味も必要無いのだ。
勿論、生きてきた証を残す必要も・・・。
それを間違えてしまった時から俺はこいつらの仲間になる事が決まっていたんだろう。
だから、この山に呼ばれたのだ。
それに気付いても、もう全てが遅すぎるが・・・。


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