「営業中」

添田さんは50代の頃に会社を辞めて喫茶店を開業した。
喫茶店のマスターはずっと憧れていた仕事だった。
その為に脱サラしてからしばらくは人気がある喫茶店でバイトもしたし、
珈琲についても色々と勉強し自分なりのオリジナルブレンドも作った。
開業資金はそれほど掛からなかった。
そもそも閉店していた喫茶店を買い取ってクリーニングだけを徹底した。
勿論、あまりお金を使いたくなかったというのもその理由の一つではあったが何よりもその喫茶店の造りや雰囲気が彼の思い描いていた喫茶店の理想の形に近かったからなのだという。
店内の椅子やテーブル、そしてカウンター、少し茶色くなった木の壁と白い壁紙のコントラスト、そしてお世辞にも明るいとは言えない古臭い照明。
それら全てが彼にとってはまさに理想的でありそれ以上手を入れたり改装する気にはならなかったという。
ランチや食事メニューは無かったし、あるのは飲み物だけ。
しかし提供する飲み物には可能な限り拘る。
豆を厳選し昔ながらのサイフォンで淹れるコーヒーはオリジナルブレンドのみ。
冷凍ものや既製品を使わず全てを自分の手で労力を惜しまずに作る。
その為、注文を聞いてからお客さんにお出しするまでにそれなりの時間が掛かってしまっていたがそれでも文句を言う客はいなかったそうだ。
いつしかその喫茶店はその場所を愛する者だけが好きな事をして心地よく過ごす場所として定着していったらしく、そのせいかコーヒー1杯でずっと長居するお客さんもいたが、それに対して彼が文句を言ったり嫌な顔をすることもなかった。
そんな感じだったからその喫茶店はお客さんで賑わうという事も無かった。
お客さんがいてもせいぜい1人か2人・・・。
しかも、飲み物一杯だけで長居されるわけだからお店の経営としては常に儲けというものは無かったそうだ。
ただ彼は後悔はしていないという。
彼自身がそんな雰囲気の喫茶店を営んでみたかった訳だし、何より誰もお客がいないその店で一人ぼんやりとした時間を過ごす事が彼にとっては最高の時間になっていたから。
そして、もう一つ彼には楽しみがあった。
彼の店ではアルコール類は一切提供してはいなかった。
しかしお店が終わった後、カウンターの奥にしまい込んでいたウイスキーを取り出してきて一人でカウンターでチビチビと飲む。
それこそが彼にとっては至福の極致となっていた。
そんな毎日を送りそれから10年ほどが経った。
それまでに彼の回りでは色んな出来事があった。
色んな事を考えて思いを巡らせてきた。
彼の周りで変わらなかったのは
古臭い彼の店とコーヒーの味、そして
夜のルーティンだけだった。
そして、その夜も彼は午後8時に店を閉めるとカウンターに座り一人で
ウイスキーをチビチビと口に運んでいた。
ある決意をもって・・・。
だからその夜はずっと飲まずにしまい込んであった、取って置きのウイスキーを
飲む事に決めていた。
そんな状況の中、突然お店のドアが開いた。
驚いて入り口のドアの方を振り返ると其処には年配の老紳士が立っていた。
彼はお客さんの顔を覚える事には自信があったが明らかにその老紳士は初めてお店にやって来た顔だった。
すみません・・・・もうお店は閉店してるんですが?
彼がそう言うとその老紳士は不思議そうな顔で
すみません・・・外の看板に「営業中」の看板が灯ってたものですから・・・。
と返してきた。
慌てて彼が確認しに店の外へ行くと確かに老紳士の言った通り外においてある看板には営業中の明かりが灯っていた。
仕方ない・・・何か1杯だけ飲ませて帰ってもらうか・・・。
そう思い、
中へどうぞ・・・お好きな席にお座りください・・・。
そう言うと老紳士は小さく頷くとそのままカウンター席へと進み彼の目の前に
腰かけた。
えっと・・・何にしましょうか?
彼がそう問いかけると老紳士は
熱い珈琲をいただけますか?
とだけ返してきたという。
よく見てみるとその老紳士はとても品が良く見えた。
服のセンス、そして着こなし、どことなくにじみ出るような高貴な雰囲気。
彼は思った。
この方はどこに住んでいるんだろう?
この辺では見かけない顔だが・・・。
でも、きっと立派な地位の方なんだろう・・・。
そう思って、残っていたコーヒーを処分し全てを新しく淹れ直し最高の珈琲を
提供しようと思ったという。
いつも以上に時間を掛けて珈琲豆を厳選しミルで粉砕しじっくりと蒸らした。
そして、いつも通り最高のサイフォンで淹れたコーヒーはまさに彼にとって
渾身の出来栄えとなった。
お待たせしました・・・。
彼は誇らしげにそのコーヒーを老紳士の前に静かに置いた。
ありがとうございます・・・。
老紳士はまた小さくお辞儀をするとコーヒーカップを口へと運んだ。
如何ですか・・・・当店自慢のオリジナルブレンドです・・・。
いつもは絶対に言わない言葉を彼は無意識に老紳士にかけていた。
なんという美味しいコーヒーだ!
そんな一言を彼は待っていたそうだ。
しかし、一口飲んだ老紳士はすぐにコーヒーカップを受け皿へと戻しゆっくりと
そして小さく溜息をついたという。
申し訳ありません・・・私にはこの珈琲が美味しく感じられません・・・。
そう続けた老紳士の言葉を聞いて彼はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
すると、老紳士はゆっくりと話し始めたという。
珈琲にも人それどれ好みというものがあるんですよ・・・。
この珈琲は決して不味くはないのでしょう。
でも、今の私の口にはどうしても合わないのです・・・。
なにか押し付けられている様な・・・・そして尖った味がして後味が堪らなく
嫌なのです・・・。
でも、珈琲1杯でも色んな味が合って色んな好みの人がいる・・・。
それが人生となるともっと厄介です・・・。
そもそもそれぞれの価値観で生きてきた人間同士がうまく合致するはずもない。
まあ、それをお互いが上手く相手に合わせているからこそこの世の中は
成り立っているのかもしれませんね・・・。
だが、それは決して己を捨てている訳でもなく媚びている訳でもない。
そういう事もこの世では大切な事なのかもしれませんね・・・。
私はそういう融通し合う世界を嫌ってもいないですしむしろそんな人間を
尊敬に値するとさえ思っています・・・。
ただ、己の殻を被ったまま勝手に自滅し消えていくのを見るのは悲しいものです。
酒に逃げたままで・・・。
生きてさえいれば大概の事はやり直せるんですから・・・。
そこまで聞いて彼は思わずその場で泣き崩れてしまったという。
この老紳士は一体何者なんだ?
どこまで俺の事を知っているんだ?と。
そして、彼は語り始めたそうだ。
それまでの人生の辛さと悲しみを・・・。
脱サラして始めた喫茶店は自己満足という名のもとにどんどんと客足が
減っていき、やがて妻子も去っていき友達も去っていった。
残ったのはそれなりの金額の借金と古い店だけ・・・。
毎日、死ぬ事ばかりを考えて生きてきた。
そして、今夜カウンターでウイスキーを煽り、唯一残ったこの店の中でひっそりと
死のう・・・。
そう思っていた。
それらをその老紳士は全て見透かしている様な気がして彼はそれらを全て話してしまった。
それを聞き終えた老紳士はゆっくりと彼の肩に手を置いて
やり直せない事なんてこの世にはありませんよ・・・。
少なくとも私はそんな世界を許してはいない・・・。
あなたなら大丈夫・・・。
そう言ってカウンター席から立ち上がると静かに入り口のドアの方へと歩いていった。
そして外に出る時、彼はこう尋ねられたという。
また、寄らせてもらっても宜しいでしょうか?
彼は何も言えず大きく頷く事しか出来なかったという。
それからしばらく彼は店を休んだそうだ。
自分を見つめ直す為に・・・。
そうすると色んな事がはっきりと自覚できたという。
自分が今までどれだけ独りよがりの生き方をしてきたのか?
そしてその結果、どうなってしまったのか?
人間は1人では生きられない・・。
そして自分は決して1人きりではない・・・。
本当に恐ろしいのは勝手に自分を追い込んでいく事。
今からでも自分は変われるかもしれない・・・。
いや、変わらなければいけないんだ・・・と。
そして、店を再開した際には軽食メニューを新たに加え珈琲の種類だけでなく
飲み物やスイーツ系のメニューも増やしたという。
勿論、店を再開するにあたり新メニューにも時間を掛けて拘りだけは貫き通した。
そして、何より彼は常に笑顔を絶やさないようにした。
お客さんには笑顔で元気よく接し、お店の中は常に暖かい空気で包まれるようにした。
その時、彼は実感した。
こんな俺の店でもまだこれだけのお客さんが好んで来てくれている・・・。
俺は1人きりなんかじゃなかった・・・と。
そんな感じにリニューアルされた彼の店はその後次第にお客さんが増えていき、常に客足の絶えない
満席の喫茶店として認識されるまでになった。
自分だけしか信じられなかった彼が今では3人の従業員を雇って更に店は繁盛している
という。
そんな彼はあの夜以来、店が終わってから1人でお酒を飲むのを止めたそうだ。
そして、もう1つ。
彼は店の閉店時刻を過ぎてからも外に置かれている「営業中」の看板の明かりは消さない
のだという。
あの夜も、うっかり忘れて「営業中」の看板を点けたままにしていたら、あの老紳士
に会うことが出来たんです。
だから、あの看板の明かりは消しません。
私が店を出るまでは・・・。
そうしていたら、またあの老紳士に会える様な気がするんです。
だって、あの時老紳士は言われました。
また、寄らせてもらっても宜しいでしょうか?って。
だからずっと待ってるんです。
今度こそ渾身のコーヒーを淹れて「美味しい!」と言ってもらいたいんです。
そして、あの夜、少ししか飲めなかった、取って置きのウイスキーを一緒に飲みたい。
それが今の夢なんですよ!
あの老紳士はきっと人間ではなかったんだと今は思っています。
だって店から出ていく時、ドアは開けず通り抜けていったんですから。
でも、そんな事は関係無い。
今の私の理想というか夢は、あの老紳士のようになりたい・・・というものなんです。
彼はそう嬉しそうに語ってくれた。
 
 
 

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