登る理由

これは友人である登山愛好者さんからお聞きした友人の体験談。
露崎さんは山をこよなく愛している。
本格的な登山からは足を洗った今でも・・・。
そして、もう犬は飼っていないが犬に対してもペット以上の関係性を感じている。
今はもう低い山に日帰りでのトレッキングしかしなくなったが以前の彼は様々な経験を積みながら1年中時間が空けば山に登るという生活を続けていた。
その頃の彼はチームでの登山だけでなく単独での登山もこなしていた。
まさに沢山の山の頂に登り、自分の力を過信し始めていた頃だったそうだ。
その年、彼は冬山への単独登山を計画した。
事前に天候の推移も調べ、じっくりと時間をかけて計画を練った。
そして何よりも単独での冬山という事もあり彼としては危険といわれる山は避けて比較的
難易度の低い山を選んだそうだ。
トレーニングにも励み、並行して体調管理にも気を配り、登山当日にはまさに絶好調という状態で出発することができた。
装備も万全だったし食料も十分に用意した。
勿論、事前に登山の届け出もしてあったし唯一の家族である愛犬も信頼できる友人に預かってもらった。
誰から見てもまさに盤石の準備をした冬山登山だった。
しかし、彼には運というものが無かった。
いや、少なくとも天候をつかさどる神様からは完全に見放されていたのかもしれない。
出発当日は快晴だった山は2日目の朝、テントの中で目覚めると完全な暴風雪状態になっていた。
1メートル先すらも見通せないほどの完全なホワイトアウト。
それまでの行程は順調だったこともあり既に彼は2500メートル程の高さの場所にいた。
登ることも降りる事も出来ない状態。
それなりに冬山の登山経験もあった彼だったから、そんな状態でテントから外に出れば明らかに自殺行為以外の何ものでもないことは十分に理解していた。
そんな彼がテントの中でじっと暴風雪が収まるのを待つ、という選択をしたのはまさに理にかなった行動だった。
しかし、そのまま暴風雪が収まることは無く日にちだけが経過していく。
勿論、彼は嵐の為にテントの中でビバークするしかないという状態を伝え、救助を要請した。
しかし携帯電話が何処にも繋がることは無く、そのうちに電源さえ入らなくなってしまったという。
このまま嵐が収まらなければ死ぬかもしれない・・・。
その時彼は初めて死を意識したという。
かなり余裕を持って持参した食料も暖をとるための燃料もカイロも全てを使い果たしていた。
あとは自分の体力がどれだけ持つかどうか・・・。
いや、食料も無く、暖もとれない状態では人間などそう長くは生きていられないことは彼にもわかっていた。
彼はリュックの中を必死になって探した。
何か燃やせる物は無いか?と。
持ち帰るつもりだったごみや下着など燃やせる物はそれなりにあった。
しかし、自分が最後に何も無い状態で寒さと対峙する為には少なくとも衣類などは燃やさずにとっておくしかなかった。
彼はギリギリまで寒さに耐え、どうしても我慢出来なくなった時にごみなどを燃やして暖を取った。
正確に言えば、小さなごみを燃やしてもテントの中は全く暖かくなどならなかったが、それでも燃える炎を見ているだけで生き残ろうという勇気がわいたという。
酒は持ってきていたが飲むことはしなかった。
酒は一時的に体が温かくなった様に感じるが、根本的な体温の回復には繋がらないことは分かっていた。
少なくとも死ぬ直前までは投げやりな行動だけは取りたくは無かった。
それには理由があった。
彼には以前愛する妻と一人息子がいた。
しかし、些細な行き違いで妻とは離婚し、1匹の愛犬だけが残された。
彼は離婚した事を後悔しながら生きていると同時に、もう取り返しがつかない事もなんとなくだが分かっていた。
だからなのだろう。
愛犬には出来うる限りの愛情を注いだ。
家族が自分から離れていったが、愛犬だけはずっとそばにいてくれている。
彼は愛犬に、家族であった妻と娘を投影していたのかもしれない。
だからこそ、そんな愛犬を残して死ぬわけにはいかなかった。
何としてでも生きて帰って愛犬の頭を撫でて抱きしめたかった。
それだけが彼が生きて帰る目的だった。
しかし、これほどの暴風雪の中、救助が来るはずもない事は分かっていた。
だからこそ、自分ひとりの力で何としてでも生き延びてやる!
そんな強い決意が彼にはあったのだ。
しかし、何も食べられず明らかに低体温症になっている彼には、もう生き残る手立ては尽きていた。
気力だけで何とか命をつないできた彼にも、いよいよ最後の時が訪れるのだと彼は悟ったという。
そして、最後に・・・・という事で温存しておいたウイスキーを口に含み一気に井の中へと流し込む。
冷え切った体の中をウイスキーが一瞬でも温めてくれたらもしかしたらこの冷たさだけの感覚でなく少しは暖かいという感覚を持って死ねるのではないか?
そう考えたという。
しかし、完全に冷え切った体にはウイスキーのストレートは強すぎたのかもしれない。
彼は喉や胃に激痛を感じその場でうずくまった。
しかし、それも次第に消えていった。
睡魔が痛みを凌駕しだした。
とにかく凄まじい眠気に襲われた彼だったが、それに抗う事はしなかった。
この寒さの中で眠ってしまえば100パーセント凍死する事は明白に分かり切っていた。
しかし、そんな事はもう彼にはどうでも良かった。
とにかく少し体を休め苦しみから解放されたい・・・。
そんな思いしか彼の頭の中には存在していなかった。
〇〇〇〇・・・ごめんな・・・。
彼は愛犬の名を呼びながら謝り続け、そして体から力を抜いていった。
死ぬのは怖くは無かった。
ただ、愛犬に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
〇〇〇〇・・・ごめんな・・・。
そうして意識がゆっくりと薄れていく。
 
その刹那、突然遠くから犬の吠える声が聞こえたという。
ワンワン・・・ワンワン・・・。
薄れていく意識の中、彼にはその犬の声がすぐに判別できた。
間違いなく愛犬の声。
しかし・・・どうして?
愛犬は友人に預かってもらっていたし、たとえ逃げ出したとしてもこんな
暴風雪の中を山に登ってこられるはずも無かった。
睡魔に完全に押しつぶされる前に彼はその犬の声でかろうじて意識を保ち続けていた。
やっぱり死ぬんだな・・・。
一番会いたい奴に会わせてくれるなんて最後の最後で山の神様も乙なことをしてくれるもんだな・・・。
でも、悪くないもんだな・・・最後にあいつの声が聴けるなんて・・・。
だが、これじゃ死んでも死にきれねえよ・・・・。
そうぼんやりと考えていた彼だったが、その犬の声は明らかに彼のテントへと近づいてきているように聞こえる。
なんだよ・・・最後にあいつの姿まで見せてくれようっていうのか?
そう思った次の瞬間、何かがテントの中へと突っ込んできた。
ただ、その時の彼にはもうそれに反応する体力も気力も残ってはいなかった。
テントの中に突っ込んできた何かはそのまま彼の顔を舐め始める。
本当に・・・・〇〇〇〇なのか?
なんで?・・・どうして?
そう考えていると愛犬は彼が体を沈めている寝袋にピタリと体をくっ付けてくる。
最後の気力を振り絞って愛犬を寝袋の中へ入れてやると、その体はとても暖かく感じられた。
ずっと寒さだけの世界にいて忘れていた温もり・・・。
彼は愛犬を抱きしめながらその温もりを分けてもらった。
本当に幸せな気持ちになった。
もう死んでも思い残すことは無い・・・。
このまま寝れば安らかに死んでいけるかもしれない・・・。
それに、こんな嵐の中、愛犬が冬の山を登ってこられるわけがないのだ。
でも、ありがとう・・・・最後に少しだけ温まることができた・・・。
そう思いながら彼が意識を失いかけると腕に電気が走ったような痛みを感じた。
また現世に呼び戻された彼は、愛犬が自分の腕に噛みついている事に気づく。
その時の彼はほとんど何も考えられない状態であり、その時の痛みすらきっと
幻なのだと思っていた。
だから、
なんだ・・・・おなかが空いてるのか?
いいぞ・・・・食べても・・・。
お前が生き残れるんならそれでいいんだ・・・。
そう思いながらまた眠りに落ちようとすると再び愛犬が腕に噛みつき痛みで意識が呼び戻される。
そんな事をどれだけ繰り返しただろうか・・・・。
既に痛みすら感じなくなってしまった彼は、ようやく眠りに就くことができた。
その時何故か寝袋の中がとても暖かく感じられたという。
次に目を覚ました時、彼の目の前には沢山の救助隊員の姿があった。
助けられた彼はそのまま病院へと搬送された。
数日間、意識が昏睡し生死の境を彷徨った彼は、それでも奇跡的に意識を取り戻した。
かなりの手足の指を失うという結果になったがそれでも生きて救助隊の到着を待ち続けた彼の生還はまさに奇跡としか呼べなかった。
それから入院中、彼は沢山の事実を知る事になった。
彼が発見された時、寝袋の中に留まっていただけなのに、彼の腹部はとても暖かい状態を維持していた事。
そして、救助隊が彼を迅速に救出できたのは雪の上に付けられていた在るはずのない
犬の足跡を追いかけた結果だったという事。
そして・・・・。
友人に預けていた愛犬が突然死した・・・・という事だった。
いつもは人懐っこい性格の愛犬は友人夫婦にも近寄らせずじっと部屋の隅で何かに体を擦りつける様にしながら座っており、朝方になって死んでいるのが発見された。
その夜はまさに彼がテントの中で愛犬と再会していた夜であり、死んでいた愛犬の体はまるで冷凍庫の中で死んでいたかのように硬直し氷の様に冷たくなっていた。
ただ、その顔はとても満足げな顔に見えると同時に体はまるで野山でも駆けてきたかのように汚れていたそうだ。
そして、山での出来事が夢ではなかった事を示す様に彼の右腕には愛犬の噛み傷がしっかりと残っていた。
甘噛みではないが、微妙に血が滲む程度に付けられた噛み傷。
それは愛犬が彼を死なせない為に、そして眠らせない為に必死で考え抜いた噛み具合だったのは彼にもはっきりと分かったという。
それを知った時、彼は愛犬の気持ちを思い、涙が止まらなくなった。
そんな事があってから、彼はもう二度と山には登らないと決めた。
山の怖さを思い知ったのもあるが、山に行けば亡くなった愛犬の事を思い出してしまうから・・・。
だが、そんな彼が最近は標高の低い山に日帰りで登るのを楽しみの一つにしている。
これはどういうことなのか?
どうやら、山に出かけると愛犬の声が聞こえてくるのだそうだ。
最愛の家族の声が・・・。
そんな彼は亡くなった愛犬の代わりに別の犬を飼う気も毛頭無いそうだ。
あいつに助けられた命ですから・・・。
今度は僕があいつを山の中から助け出してあげないと!
最後に彼はそう熱く語っていたそうだ。
 
 

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